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【長編】哲プラ連絡会公式機関誌『みんなで考えよう』創刊号を読んで考えよう

みんなで考えよう

今年は私は参加できなかった、(第4回)哲学プラクティス連絡会。*1

初の公式機関紙がweb上で無料で読めます。

すばらしい原稿の数々と編集委員の方々のご努力により、とても楽しい読み物になっていると思います。「学会」もできたけれど、もっとこういう風に所属とか学歴とか関係なしに、「みんなで」考えるほうが楽しいし、大事なんだと、思わせるだけの力がある読み物になっています。*2

現時点では以下のリンクから内容にアクセスできます。*3

philosophicalpractice.jp

編集委員長の得居さんの言葉を引いておきます。

 日々、いろんな場所でいろんな人が哲学プラクティスを行い、奮闘したり、感動したり、迷ったり、悩んだりしています。それは、ファシリテーターや実践者だけでなく、子どもも大人も、それこそみんなです。

だからこそ、残したい。これらの悩みや葛藤、子どもと対話した記録を。日々蓄積がなされてきている今日だからこそ、そのための機会が必要になっていると考えています。 

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/01.pdf

f:id:p4c-essay:20180910150347p:plain

(by『みんなで考えよう』装画担当 小山莉瑛子)

 

ということで、以下すべての原稿には触れられません(全部をがっつり読めていません。。)が、いくつか気になったものを取り上げて感じたことをつらつら書きます。

 

実践の扉

◆子どもと一緒に!地域に根差した子ども哲学を ―ねりま子どもてつがく(ねこてつ)、3つの試み―
高口陽子 佐々木亜希栃尾江美 小川泰治(ねりま子どもてつがく)

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/02.pdf

 

昨年練馬区に住んでいた関係もあって、声をかけてもらい私も一応メンバーとして活動させてもらっていた、ねりま子どもてつがく(ねこてつ)。高口さんが区議選出馬&当選という大ニュースを経ても、活動中のようでうれしい。

本文で言及されている3つの試みは、1、こどもたちとのルールづくり 2、親向けの解説作成 3、ママならではのアイデアと行動力。

そのなかでも親向けの解説は本文最後についているもののベースを私が書きました。

地域での活動に満足してもらうためには、こどもが楽しんでいるだけじゃなくて、おとなにとっても、こども哲学とはなにで、どんなことを大事にしているかを伝えなくちゃいけない。そんな想いから作成に至りました。

詳細版は下記から。あんまり読まれてないと思うけれど、えらい、えらい。

nerimakidsphilosophy.amebaownd.com

それと、「連絡会」と「学会」について考えている今、最後のメッセージは重要だと思う。

 最後に、専門家でない私たちにも、こうした発表の場を与えてくださった哲学プラクティス連絡会の皆様に、感謝を申し上げます。専門家の方々の寛大さとご協力がなければ、地域では広められません。これからも、力と知恵をお借りしながら、地域に子どもてつがくをもっと広めていきたいです!

 「専門家でない私たち」と「専門家の方々」がいる。でもここにあるのは大きな川ではなくて、地域で広めていくことを目的とした協力関係。「みんなで」考えよう。

 

論考の扉

◆ドキュメント:ソクラティク・ダイアローグ2018.03/Springe―比較、および SD の副産物についても―
草間さゆり(ひろしま哲学カフェ ~呼吸と哲学のカフェ)

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/08.pdf

「ソクラティック・ダイアローグ」(SD)。名前だけ見ると、「はいはい哲学対話の対話はソクラテスがすでに古代ギリシャでやっていた問答法にルーツをもつ、とか言われることもあるから、そのあたりのことね。哲学カフェでやっていることとだいたい同じなんでしょう」みたいな気分にもなるけれど、そんなあいまいな理解ではダメな、もっとちゃんと歴史と手法の確立された実践。とても時間がかかる*4手法なので、日本でも世界でもそんなに頻繁に行われているわけではない。私も参加したことはない。

これまでも日本語で読めるSDについての紹介や論考はあったし、下記の本も比較的最近出たところ。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

 

でも、最新の海外(ドイツ)での実践に参加された記録をこれだけ丁寧に読めるのはやっぱり貴重。この機関紙がなければこうやって読めなかったと思うと、(機関紙を発行するとは)すごいことだ。

SDは「公式見解」 として、「根本的な問いに対して答えを見つける共同の試み」であり、そこに「哲学的な愉しみ」がある。けれど、草間さんによれば、それ以外にSDの副産物として、(1)普段のコミュニケーションでは味わえない「気持ちよさ(comfortableness)」と(2)いつもと違う、人との出合い方 があるという。

特に2つ目について。

SDでは[通常の出合い方とは違って]相手の素性を知るよりも先に相手の考え方を知るということが起こり、「考え方」にフォーカスした、人との出合いが起こる。 

 5日間集中して数人で問いについて話し合うという奇異な体験のなかで、考え方にフォーカスしたかたちで、人と出合っていく。ああ、おもしろそう。さぞかしそれは「気持ちのよいcomfortable」なことだと思う。

海外、行くのハードル高いなあ。でも行ってみたいなあ。。

草間さんの取り組まれている大イベントはこちら。

motion-gallery.net

 

◆W・W・W・W・W・H―「哲学対話」の外にある世界と向き合うことについて―
木村進之介(ICU哲学同好会)

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/09.pdf

高校時代に実存主義に関心をもち、大学入学後「ICU哲学同好会」として活動を重ねなてきた著者による、「「哲学対話」で対話と呼ばれている何かが、どのような機能を持っている(とみなされている)のかということであり、それが現状の「哲学対話」という名前のままでいいのかどうか」という問いをもってして書かれた文章。

そこには以下のような目的意識がある。

哲学に限らず、学問や政治にかかわることに関心がなかったり苦手感があったりする人々と、「哲学対話」系の実践に意欲を燃やす人との、ギャップを埋めることができたらいい

もう、今や「哲学対話」という4文字の言葉で示される実践に一つの正確な意味を込めることは難しくなっている。*5 哲学対話という語は多義的になった。私の感じでは、「ちょっともう哲学対話の多義性問題は広がりすぎて手が付けられない...」という気分もあるのだけれど、木村さんはそれをよしとせず、考えようとする。

特に、厳しい視線が注がれているのは、哲学対話を民主主義的で多様な参加者による実践だ、と称する雰囲気に対して、だ。印象深いのは次の1節。

テーマの決め方にかかわらず、時間的余裕や金銭的余裕、アクセスのしやすさといった資本的要素によっても「哲学対話」は同質的な場となってしまう。古代ギリシアの民主政治と哲学的営みが女性と奴隷を市民社会から排除し使役することによって成り立っていたことを現代社会の諸問題と安易に重ねることはしたくないが、大学アカデミズムへの対抗文化としての要素を伴って生まれた「哲学対話」が、権威の相対化と平易な言葉の使用による敷居の低さをアピールし、開かれた学問の実践であろうとする中で、それでも一定の限界を持つということは、「哲学対話」の目的に照らして常に反省されるべきことだ。

木村さんは直後に、哲学対話の「制度的な部分を批判しようとしている訳ではない」と言っているけれど、それでも、「だれでも、どなたでもどうぞ」という見かけをして、「哲学」という言葉を「てつがく」や「テツガク」に書き換えてwelcomeにしておきながら、それでもそこには多様性への限界と同質性への回帰みたいなものがある、というのは理念的な問題でもあり、ある意味では「制度的な」問題でもあると思う、

 もし「哲学対話」があくまで多様性の中での対話を目指すのであれば、「多様な価値観を受け入れるための場のはずが、かえって排除を生んではいないか?」というオーソドックスな問いに加えて、(われわれが「哲学対話」のルールを度々見直す必要があるように)「われわれが、われわれの求めるコミュニケーションの在り方を表すのに「哲学対話」という語を使っていることは、どのような意味を持つのか?」という問いもまた、あって然るべきである。

「みんな」や「われわれ」が使っている哲学対話の場の多義性には、もうあまり興味がないけれど、でも、自分の学校や街場での「哲学対話」と名付けた実践に対して、上記の問いは強く響く。当然ながら答えが出ているわけではないけれど、そういえば、自分が名付ける場についても、まさにルールを度々見直すのと同じように、名前を度々変えたり、告知の仕方を考えたり、悩んだり、している。そういう意味ではこれらの問いを引き受けながら、考えていることになるのかな。

  

今ベル・フックスのこの本

フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学 (ウイメンズブックス (2-1))

フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学 (ウイメンズブックス (2-1))

 

*6

を読んでいて、そこではフェミニズム運動がラディカルなものであったり、そうではなく改良的なものであったり、様々な流れや対立があったことが描かれながら、フックスは「それ[=フェミニズム]は本質的にラディカルな運動なのだ」*7と宣言している。「てつがく」とか「テツガク」とか柔らかいネーミングや看板を掲げたとしても、哲学対話も「本質的にラディカルな運動」なんだ、という気がしてくる。

 

さあ、本質的にラディカル、とは。

◆「対話」と「圧力」、その来歴*8
しばたはる(波止場てつがくカフェ)

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/11.pdf

 「必要なのは、対話ではない。圧力なのです。」

この言葉は、「対話」を実践しようと試みる全ての者に対して向けられた命題である。

 シンプルで、でもとても印象深い、某最高権力者による言葉を皮切りに、哲学者パスカルを介しながら、対話と圧力について考える論考。

www.hatoba-de-dialogue.net

 

 先ほども少し触れたけれど、哲学対話を民主主義的ななにかである、と積極的に主張してやっていったりする時点で、そこにはなんらか政治性が帯びるのかもしれない。でも、「哲学」って政治とはだいぶ違う気がするし、政治色はあんまり出したくないし、政治について語りたいわけではない。そんな弱気な気持ちがまだまだ自分にはあるのだけれど、時の権力者の(文脈は様々あれど)はっきり強い物言いに対して、哲学者の考察を通して、しかしはっきりと反論の声をあげている。強い。すごい。  

 

 

苦悩の扉

◆哲学対話のうまくいかなさを考える―こんなとき、どうする?―
永井玲衣(Core Talk Cafe)

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/12.pdf

大学の後輩永井さん。このワークショップには、確かなにか別の予定が重なっていて参加できなかったのだけれど、おそらくその前身であると思われるブース発表には参加したり、お手伝いしたりした記憶がある*9

 

その後、永井さんがgoogle フォーム上で呼びかけているのも見ていて、自分も困りごとがあるからアンケート答えよっかなーと思っていて、結局答えたのか、答えそびれたのか忘れてしまった。多分答えそびれた気がする。。でも、「おう、これ自分が書いたような気がする!」みたいな投稿がいっぱいあって、でも多分それは自分のものではないのだろう。<みんな>相変わらず同じような悩みに行きつくのだなあと思うのでした。

 

しかし、悩みごとがかなり共通してくる、ということは、全体として実践の方向性に問題がある(しっかりと洗練されていない)のではないかな。いや、それとも哲学対話や哲学プラクティスというものにそもそも付随する問題だから避けようがない(変に洗練して避けるべきではない)のかな。

 

自慢の扉

◆対話的な哲学実践を多様な仕方で自慢する試み―八つの自慢を提示する―
古賀裕也

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/13.pdf

 「何を自慢するべきだろうか」から始まる高等で巧妙で堂々とした自慢だった。

「自慢の扉」ってなにを書けばいいのかわからないけれど、確かにこうやって堂々とみんな自慢しあいたい。苦悩も大事だけど、みんなえらいのに、みんな褒めてもらえるわけじゃないから、みんな自慢すべき。

古賀さんは大学の先輩で、失礼な後輩からの意見や文句にも真摯に耳を傾けてくれるのである。お会いしたときから対話的ですばらしいお人柄であったけれど、古賀さんいわく、哲学対話によってより対話的な態度に磨きがかかったらしい。

私は元から謙虚な人間だが、胸にあるものを言わないで済ますことが無くなってきたし、相手を理解しようとするしつこさも出てきた。だから生徒にも同僚にも妻にも、より対話的となった。その結果、自らの結婚式で新郎新婦共に自らファシリテーションをすることが自明なほどになってしまった。これもまた私たちの大切な自慢である。

のろけを堂々と入れるあたり、古賀さんは変わったのかもしれない。

幸せそうでなによりである。

自分はどうだろう。哲学対話に出会って、自分の自分らしさ(徳?)に影響はあっただろうか。

◆哲学カウンセリング・トレーニング体験記―V・チェルネンコ氏と同僚たちとの1年7か月を振り返って―
水谷みつる

 http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/15.pdf

 水谷さんは、哲学対話に演劇や身体表現などを取り入れた以下のような実践をされている方、という印象があったけれど、

 【報告】哲学ドラマ特別イベント&ワークショップ「ふたつのつばさ」公開稽古+対話(1) | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

これほどまでに哲学カウンセリングの経験がおありだったとは。2016年から日本への来日経験もあり(悪評?もある)、ヴィクトリア・チェルネンコ*10やどの同僚たちからオンラインで哲学カウンセリングのセッションを50回ほど経験されているという。すごい。50回て。

もっとじっくり読んで考えないと全容はわからないけれど、気になったことのみメモ。

  • 哲学カウンセリングのトレーニングには、「哲学者の言葉を読み解く」というエクササイズがある。実際に水谷さんはニーチェショーペンハウアーを読んで、その段落を要約・読解することにチャレンジされている。
  • (当然だけど)哲学カウンセリングのトレーニングには、ただ(大勢での)哲学対話のファシリテーター経験があれば自然と身につく、というものだけでは対応できなさそう。もちろん、通じているだろうけれど、別技術もある。
  • SDもそうだけれど、よく哲学対話のルールや心構えである(でも50分や90分ではなかなか私には徹底できない)「ゆっくり考える」を徹底している感じはある。
  • 「問いを短くはっきりさせる」「問いに問いを返す」など問いに対するアプローチが面白い。参考になる。

 

さきほどの草間さんのものと合わせて、海外の実践者によるSDや哲学カウンセリングについての記録が機関紙創刊号に載った、というのはすごいなあ。

 

哲学カウンセリング―理論と実践

哲学カウンセリング―理論と実践

 

 

立正大学における哲学カフェ(Ris哲)の実施とその展望
原田聖士・飯田凌・中川暖・神之浦仁美(立正大学文学部哲学科)

 http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/14.pdf

わが出身の上智大学もそうだけれど、大学で哲学カフェが行われることは増えている。おそらく教員陣としては学生に主体的に運営していってもらいたいと思っているのだろうけれど、なかなか続かなかったり、ほそぼそとしたものも多い。私の見たところだと、そんな状況でRis哲さんの動きは精力的だ。一度の開催時間も3~4時間と長い。原稿中でも言及されているけれど、哲学用語を使わない通常バージョンのほか、哲学科生ならではの哲学用語使用を歓迎する「ハード版」もある。

これまで、哲学カフェについての研究は数多い。しかし、大学内で学生主体として運営されている哲学カフェについての研究は多いとは言えない。 

哲学カフェについての研究がここまで細分化されていくことに驚きつつ、読む。活動に参加した学生や教員へアンケートやインタビューの分析と考察によって論は進むけれど、注目すべきはRis哲にかかわっていない「教員C(男性、60代)」へのインタビューによって明らかとなったRis哲および哲学カフェへの批判に対して、力強く再反論している後半部だと思う。大学の教員に、哲学のありかたをめぐって、堂々と公開のかたちで反論する、というのはあまりないと思う。えらい。

それに教員Cによる批判は哲学科の教員陣で哲学カフェや哲学対話的な活動に対して距離をとっている人たちにも多くにみられるように私には思われる立場である点で、貴重な資料だと思う。そういった声は、飲み会の席などで話されることはあっても、こうやって文章のかたちで残ることはあまりないから。

 

原稿のなかの言葉を借りれば、哲学カフェに取り組む哲学科の学生に対し、その大学の哲学科の教員から、

哲学カフェでの議論は知識を必要とはせず、まとめをすることもないために、哲学的なテーマに関する議論が深まらないのではないかという懸念が、従来の哲学研究の立場から、表明された

のだ。

こういった懸念に対して5つの観点から再反論を行っていて、どれもまっとうだろうと思う。

特に、学生自身によって

このこと[=哲学用語などの専門知識を使わずに議論をすること]が必要であるのは、しばしば哲学を学ぶ学生同士で議論をする際に、「ある哲学者が述べているから正しい」というような権威づけがなされ、議論が「どれだけ哲学に関する知識を持っているか」というパワーゲームとなってしまうことがあるためである。このような議論は、自身で考えておらず、本当の意味で「哲学」していない状態といえるだろう。

確かに哲学科で学ぶ人にとって哲学者にとっての知識はパワーゲームを勝つための道具ではないので、ここでは知識に対して過度な反発をしているようにも見える。けれど、別に哲学カフェに熱中することが、哲学史の勉強を放棄することと重なるわけではない。哲学者の知識を権威としてではなく、対話相手としながら自らも哲学することが本来の在り方かもしれないけれど、現状ゼミや研究会がそういうあり方とはかけ離れているようにここでは受け取られていることを、教員の側はまだ知識のない学部生が自分たちが知識のないことを棚に上げているとあしらうのではなく、丁寧に受け止める必要があるとも思う。

 

◆つながり―哲学カフェで学べたこと、気づいたこと―
篠原崇

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/17.pdf

 絵が入っているのがいい。

特にこどもとする哲学において、哲学対話をすると「コミュニケーション力」が身につく、みたいな書き方を宣伝文句として掲げることがある。ではそのコミュニケーション力とはなんであり、そもそも哲学対話とコミュニケーションとはどのような関係にあるのか、それを篠原さんの原稿を読みながら考えることができる。「コミュニケーションの難しさ」とかって言われると、わかる気がするけれど、その内実をもっと考えたい。

貧困の状態をジャクリングに例えるという話が面白い。

気持ちに余裕がなくなると、考え方の視野が狭くなり、長期で物を考えられなくなり貧困へと繋がっていくそうだ。

ここでの「貧困」は単にお金がない人のことを指すわけではなくて、「社会との繋がり(コミュニケーション)が切れた人」を指す言葉だということを考えると、じつは哲学カフェの場で饒舌に次から次へとしゃべることのできる人は、まさにジャクリングをしているようも見える。次から次へと言葉は出てくるけれど、それは気持ちに余裕がないこと、考え方の視野が狭いことの裏返しではないか、という気もしてくる。そうすると、実はじっくりと立ち止まって考えられる人のほうが、見かけとは裏腹に豊かなコミュニケーション力をもっている、とすら言えるかもしれない。そんなことを思うのでした。

 

 

 

最後に 

なんというか、確かに「哲学対話」という言葉は十分な反省もなく、多義的なまま独り歩きしている感じはある。いや、感じじゃなくて、もう確かにそうだと思う。

そして宣伝文句やちょっと聞きかじった実践の様子に触れると、「哲学」と「対話」という本来食べ合わせの悪そうなものを無理やりパッケージ化していて、とてもまずそうな料理が出来上がっていないか、という気分になることもある。

 

でも、こうやって読んでみると、どれも「哲学対話」という言葉の前で立ち止まり、ぐっとこらえて解釈をし、「本質的にラディカルな運動」として捉えたのではないと出てこない自慢や実践や苦悩や論考や開拓だ、と思わざるをえない。

 

国内の哲学プラクティスがどうなっていくのかは誰にもわからないし、いろんな心配もあるし、不安もあるし、自分自身どうしていくのかもよくわからない。でも、哲学対話のもっている本質的にラディカルなところを反省し続ける、ということについては、<みんなで>考えていける、そんなこれからへの楽しみを感じるのでした。

 

 

......

なんの義理があって、こんなレビューを書いているのか。もちろん、読んでいて楽しいし、それについて考えたいし、それを記録に残しておきたい、という自分個人のための理由もある。でもそれと同じか、それ以上に責任感もあるかもしれない、と思う。

今回の編集として名前が挙がっている方々は直接・間接に違いはあれど、一緒に話をし、哲学プラクティスにかかわってきた人たちで、自分とほぼ同世代か後輩の人たちだ。編集委員長は「仕事だと思ってやっていない」とおっしゃったそうだけど、それでも負担は大きいだろう。なんというか、少しタイミングが違えば自分にふってきていたかもしれない(敢えて言えば)「仕事」を引き受け、これだけすばらしいものに仕上げてくれたみなさんへのお返し、というか、そんな気持ちがある。自分がただこのすばらしいものに対して「ただ乗り」しているような気になって、自分にできるのはこのすばらしいものをちゃんと楽しみ、そこから学び、それを残すことだ、という気がしている。

 

*1:大会の様子はこちら 

hibari-214.hatenadiary.com

や、こちら

hibari-214.hatenadiary.com

から。

*2:今はきっと違うと思うけれど、海外の初期のp4cや哲学プラクティスについての学会や出版物もこんな感じだったんじゃないだろうか、という感じもする。

*3:機関紙が固定ページにないような気がする。このままのリンクだと、次に新しいニュースが来た時には、リンクが変わってしまう?とても大切な読み物だからこそ、これはだれかが手を入れる必要がありそう。

*4:草間さんが日本で参加したのは2日間で短いやつ。ドイツで参加したのは5日間。

*5:この書き方だと以前は、一つの正確な意味を込めて語ることできた、ということを含意するけれど、私の実感としては確かにそんな感じ。少なくとも、以前は国内で「哲学対話」という言葉を使って実践をしたり、文章を発表したりして活躍する人のことを大部分捕捉・観測できていた気がする。その限りで、様々な意味合いで用いられている哲学対話という言葉に対して個別に疑問を呈したり、反論したりすることはできた。

*6:偶然にもこの本のタイトルも「みんなeverybody」だ。 

*7:上掲書, p. 198.

*8:HP上のタイトルとpdfのタイトルにずれがある

*9:第二回のときのこれだと思う。

カードで遊ぼう!!対話の迷い 古賀裕也、堀静香、永井玲衣

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2016/07/B%EF%BC%92.pdf

 

*10:

高橋綾「折々の人 ヴィクトリア・チェルネンコ」.pdf - Google ドライブ

ameblo.jp