高専てつがく+α(仮)

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。これからは日々のことも綴ってみようと思います。

学校の気持ち悪いところなしでは教員でいられない

週末。平日はもちろん授業はしているものの、空きコマでのその他の仕事への集中力が続かなくなってきてしまって、だらだら学校に残るのはよくない。ピシッとしないと。

 

写真はドライブで行った近くのダム。3、40分走ればダムのある街よ。

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授業と自習

カリキュラムの都合上、週二回、90分の授業をしているので、それぞれのクラスの学生とはそれなりにリラックスもしながら、コミュニケーションがとれるようになってきた。

 

今年は担任などはないのだけれど、一学年全体の副担というゆるやかな業務をふっていただいている関係で、自習課題を告げにいって、そのまま教室に残って様子を見ていることがあったりする。

 

自習時間で教員がだれも来ないと思って、おもいおもいに勉強していたり、席を動かし友人と話したり、している、そんな教室にそーっと入っていって感じるのは、「やばい全然注目してくれない!」ということ。

 

あと、こちらを値踏みするように向けられる眼差しがこわい!

なんかよく知らん若い先生がきたけど、この先生はどんなもんか。

どこまでうるさくしても怒らないだろうか。

自分たちのことをきょろきょろ見てくるけど、大丈夫なんか。 

 って思われてんのかなあって思っている。

 

また教室という「箱」の話、あるいは評価を握るという話

それであんまりビビってもいられないので、やるべきことをやろうとして、一応の仕事はしているつもりなのだけど、気づくのは、普段いかに時間割に組み込まれた「授業」という枠組みのおかげで、自分が40人以上の学生の前で話させてもらっているのか、ということ。

 

そう思うと、冒頭に「それぞれのクラスの学生とはそれなりにリラックスもしながら、コミュニケーションがとれるようになってきた。」と書いたけれど、それは自分のコミュ力でもなんでもなくて、授業という形式を教員も学生も前提にして、そこではじめてコミュニケーションが成り立っている、ということにすぎないんだなあと考えもする。

 

もう少し正直に言えば、どんなにこちらが物腰が柔らかかったり、そういうそぶりを見せなくとも、彼らの評価権限を握っているのはこちらなのだ。担任や教科担当の教員が教室に入っていく、ということは少なからず評価ということが背後にあるのだ、と思う。

 

もちろん、最初は時間割どおりにやってきて授業をし、最終的に自分たちを評価する存在(=授業を受けないと、怒られるし、評価を下げてくる存在)として話を聞いていて、少しずつ打ち解けてくる、ということももちろんあるはずだと思っている。

 

ただ、好きに座席なども移動している自習教室にふらふらと入っていくときと、授業時間割に組み込まれたかたちで40人が最初から座っているところに入っていくときでは、とにかく、なんだか全然違うのだ。

 

 

学校の気持ち悪いところなしでは教員でいられない

彼・彼女らと楽しくおしゃべりができるのはついつい自分の手柄だと思ってしまいそうだけどそうじゃあない。

 

私語があったり、寝てたり、内職したり、スマホいじったりもされるけど、それでも時間割通りに彼らが前を向いてそこで私を待っている、ということが私と彼らのコミュニケーションを実は強力に支えているのだ、という当たり前の話。

 

でも

私語があったり、寝てたり、内職したり、スマホいじったりもされるけど、それでも時間割通りに彼らが前を向いてそこで私を待っている 

って学校のとても気持ち悪いところでもあると思っている。

 

そんな気持ちの悪いところに、助けられないと教員でいられないのです。

 

 

 

気持ち悪いついでに

昨晩は映画館で「万引き家族」を見た。

妻は泣かなかったらしいけれど、私はほろほろ泣いてしまう。

「貧しさ」とか「家族」とか多様であることは知っているつもりなのに、自分のなかにある想像力の欠如とか、そんなことを感じながら。

 

小説も買ってみる。 

万引き家族【映画小説化作品】

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そして今朝は朝ごはんを食べながら妻とバチェラー・ジャパンの最新エピソードをああでもないこうでもない言いながらみる。

 

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見ながら気づいだのだけど、

昨晩見て妻と感想を話しながら考えていたこととのギャップがありすぎる。