哲学対話を広める
先日、ぼくがとても信頼しているセミ・クローズドな集まりのなかで、
哲学対話はとてもいい実践だと思うから、もっといろんな学校に広まってほしい。そのためにはどうやったらいいか考えたい。
という話題が出た。
確かに、哲学対話、自分でもいいと思うから、様々なかたちでやっていきたいと思っているし、こういうことをやる学校が増えるといいなと思ってる。それはそうなのだけど、「広める」ということを考えたときに、途端に思考が展開していかなくなるのはなんでだろう。
これが哲学対話のやり方です、と言えるものはあるのか
哲学対話をやりたいけど、やり方がよくわからないんだよね...という人には、そのやり方を紹介したポータルサイト*1のようなものを作ったり、一般向けの書籍を出したり*2、講習会をする*3、といったことが考えられる。最近では、今挙げたどれについても複数の選択肢が存在している。けれど、確かに、いろいろな人がいろいろなことを言ったり、やったりしていて、これが哲学対話です!と言えるような統一的な説明やポータルサイトのようなものはない。
それに「やり方」についてはこんな素敵な歌が、いよいよNHKで作られたのだ。しかも自分もよく知っている人が出演したり、監修で関わったりしている。
今までは対話のやり方を紹介するためには、この動画を見せていた。
これでも十分すぎるすばらしい出来だったけど、歌ってキャッチーでいいよね。
もうめんどうな説明は不要。二つの動画、見せてあとは始めればいいのだ。
その先を知りたい人のために
でも、多分、人が知りたいのは、その先なのかもしれない。実際に教室で、地域で、やるときに、具体的に何をどうしたらいいのか。対話のなかで難しい場面に出会ったらどうしたらいいのか。そんなことを教えてくれて、実践する際の不安を取り除いてくれるようなレシピのようなもの。
でもでもー、それが難しい 。だってみんな、思い思いに、気の向くままに、いろんなやり方、いろんな対応を試作しながら実践してるから。
これが哲学対話です、こうすればできますよ、メソッドはなかなか言えない。*4
ある知人は数年前、こういった現状を「密教のようだ」とたとえて、現状を一から哲学対話をやってみたい人にはアクセスしづらいのだと言っていた。入り口を広げること。
確かにそうなんだけど、哲学対話のやり方決定版withトラブルシューティング、みたいなものができないのは、現状の問題を超えて、哲学対話ってそもそも決定的なやり方、なんてもたないものだから、という理由がありそう。
哲学対話のスピリット*5
確かにこども哲学には、それなりに蓄積されてきた理論や手法があって、ぼくたちもそこから学んでいる。だけど、こども哲学にとって大切なのは、そういった決まった「やり方」ではなく、こどもたちと哲学をしようとするときの大人の側の心構えなんじゃないかなと思う。こども哲学のスピリット、とても言えるものだ。
大人の期待通りに考えてもらいたい、育ってもらいたいという気持ちを一旦脇に置き、こどもたちの自由な思考のなかに一緒に身を置こうとすること。ぼくたちの日常には、大切だけどそう簡単に答えの出ない問題がごろごろと転がっていて、毎日生きていくのはそう簡単じゃあない。それはおとなだけじゃなくて子どもだってきっと同じだ。
そう考えるなら、こども哲学は、こどもたちをそんな世界を一緒に生き抜いていく仲間のように捉えることから始まる、とも言えるのではないか。こう捉えることで、大人が正解をもっていてこどもたちに教える、のではなくて、お互いの生活の中で気になっている問いを大切に考えあうような、こども哲学の場が始まる.......のではないか。
こういったスピリットがあれば、やり方はどんなものであっても、きっと大丈夫だ、と思いたい。
いや、でもでもでもー、スピリットなら、やり方よりも、簡単に共有できそうに書いたけども、実際はそうじゃなくて、スピリット=なんでこども哲学がやりたいか、をわかってもらったり、共有するほうが難しいわけだ。
ただ、そこを理解して、共感してもらえるように、コツコツ実践をして、その実践現場に足を運んでもらって、一緒に悩んでもらう、そうやってじわじわと広がったり、喧嘩したり、離れたり、そうやっていくほうが健全なんじゃないか。
こども哲学のクックパッド
だから、これが一つのやり方だ、と書いたものじゃなくて、
みんなが気になったらアクセスできるような、
「小学校・国語・30人」で検索したら、いくつかの事例が出てくる、みたいな、
こども哲学のクックパッドがほしいなと思った。
今回のブログの内容と関連して、
私がやりたいことはこどもの哲学でしかできないことなの?という疑問がある。
夏休み中にそれも考えられたらいいなと思ってます。