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いかにして【小さな声】がかき消されずに合意が成立するのか?

はじめにの前に

2012年から2015年(だったはず)まで、都内の小石川中等教育学校の先生に実践の場を提供していただき、高校生と哲学対話をするという機会を継続していました。

 その一実践に、お越しいただいた方に、当時エッセイを寄稿していただいたのですが、私の全くの不手際でこれまでずうっと世に出せずにいました。この度大森さんにご連絡をし、掲載の許可をいただきましたので、こちらのブログで公開します。

 一回の実践しか見ていただいていないのに本当に目の付け所が面白くて、すごくて、ワクワクします。なんというか、最近別のところでも思うのですが、P4Cの実践や研究はしばしばアカデミズムの哲学研究と対置されますが、でもしっかり日々アカデミックな研究機関で哲学をされている方にも、このようなかたちでP4Cを見ていただけるんだとしたら、P4Cとアカデミズムの対置なんて阿呆らしいよなと、そう思ったりもします。

 後日僕も考えたことを別のエントリで書こうと思っています。

 

 大森さん、本当にごめんなさい。その上快く掲載許可をいただきありがとうございました!

 この論考がたくさんの方の目に触れて、みなさんの考えが刺激されますように!

 (以下本文にいくつか私の判断で注釈を入れさせていただいております。)

 

 

 

いかにして【小さな声】がかき消されずに合意が成立するのか?

—P4Cの実践現場からの考察—

                               大森 一三

 

1. はじめに  

 

 現在、子どもの哲学(Philosophy of Children. 以下P4Cと略記)は、哲学、倫理学、教育学をはじめとする学問研究としてだけではなく、さまざまな教育現場でも高い関心を持たれており、関連する論考や実践の報告も年々増えてきている。

 この度、都立小石川中等教育学校で行われた「小石川フィロソフィーⅡ現代社会in action」に参加し、P4Cの対話実践を行う際に生じる課題に対する解決の示唆を得ることができた。この短い稿では、P4Cの対話実践に伴う課題と、小石川での実践を通して得られた発見を簡潔に記してゆきたい。

 

 

2. P4Cの到達目標と課題  

 

 さて、P4Cを紹介している書籍や関連する諸論文では、一般的に、対話による子どもの哲学授業は1969年にM・リップマンが始めたとされている。だが、子どもに対して哲学的な問答を用いた教授法の実践は(もちろんなにをもって「哲学的な問答」とするかには議論の余地があるが)、少なくともリップマン以前、「教育の世紀」と呼ばれた18世紀の欧州においても、キリスト教のカテキズム(教理問答)を応用した仕方で試みられていたし、理念的にはソクラテスとその弟子たちとの対話に遡ることができる。だが、ここではそういった細かい歴史を掘り返すことは止めておこう。

 まずはP4Cの対話実践に伴う疑問ないし困難を提示してゆきたい。ハワイでのP4C実践の第一人者であるトーマス・E・ジャクソンの”Gentry Socratic Inquiry”(中川雅道訳, 2013. )*1ではP4C の目標を「自分自身で考える能力を育み、責任をもってその能力を使えるようにすること」と示した上で、対話実践を実際に行う際の「教師の位置づけ」や「スキル」が述べられ、P4Cの目標、特徴、課題とその解決が簡潔に提示されている。

 この論稿の結論を一言でまとめるならば、P4Cの目標成就は、P4Cを行うグループが対話実践を通して「探求共同体(Community of Inquiry)」となることにかかっているという点にある。

 「探究共同体」とはP4Cを行う教師と生徒が「教え:学ぶ」という関係から脱却し、一人ひとりの参加者が相互に相手を尊重し、信頼しながら問題を探究してゆく集団関係を意味する。

 したがって、ジャクソンの論稿で示されるP4Cの課題とは「探究共同体」を阻害する要因を取り除くことである。ジャクソンは、この課題を、「知的安全が確保されている場所(intellectually safe place)をどのように獲得するか」という課題と言い換えてもいる。

 「知的安全の確保」とはP4Cが行われるコミュニティ内で、 誰のどのような発言であっても受け止められ、多様な発言が意見として受け止められ、議論される環境を築くことを意味する。P4Cを実践しようとするならば、これらの課題が解決されるべきであり、ジャクソンの論稿では、その解決のための丁寧な仕組みや「スキル」が示されている。

 

 

3. テーマ設定に伴う危険:【小さな声】はかき消される?

 

 だが、多様な意見が相互に受け入れられ、尊重される場の成立など本当に可能なのだろうか。どれほど(「コミュニティボール」や「マジックワード」やその他諸々のルールなどの)「スキル」を用いても、参加する子どもの性格やこれまでの関係性、言語能力の差の方が強く影響し、結局は「声の大きな者」の意見のみが対話の場を支配するのではないだろうか。一見、「知的安全の確保」が成功 し、対話が進んでいるように見えたとしても、実際は、哲学対話の場の実施者(それは多くの場合、教師や大人である)の仮説の成功を表面的に見ているだけではないか。

 こうした懸念はP4Cの実践の過程ではとりわけ「テーマの設定」の際に表面化するだろう。ジャクソンの先の論文では「テーマの設定」は子供の関心に従って自由に選択することが強調されている。

 だが、自分の「関心」を明瞭かつ説得的に述べることをできる【大きな声の子供】もいれば、消極的で全体の調和を慮って、自分の「関心」を引っ込めてしまう子供や、自分の「関心」をはっきりと述べることが苦手、あるいは自分の「関心」を掴むことが十分にできず、まったく主張をしない【小さな声の子供】もいるだろう。

 そうした中では、最初のテーマ設定の段階で、いかに「スキル」を活用しようとも、結局は【大きな声の子供】の声のみが反映されてしまい、本当の意味で多様な意見が相互に受け入れられ、尊重される場など成立しないのではないだろうか。

 

4. 「意見の一致による合意」ではなく「テーマの変質による合意」
  —フィロソフィア小石川での考察より

 

 主観的な体験に基づいた意見ではあるが、フィロソフィア小石川*2でのP4Cの実践に関していうならば、最終的には多数決を持ってテーマの設定を行ったが、それでも【小さな声の子供】の声はかきけされず、十分に汲み取られた上でテーマ設定が行われたのではないかと思われる。ではそれを可能にした要因は何だったのか。

 フィロソフィア小石川での第四回の対話*3では、テーマの設定に際して、最初は7つのテーマが提案され、どのテーマに対しても「そのテーマにしたい」という希望者が複数名いた。

 参加者は、 テーマ設定に際して、それぞれにそのテーマを希望する理由や背景を互いに質問し、意見を交換してゆく時間を十分に取り、最終的には、多数決で「個性は大切か」というテーマが決定されることになった。

 では、参加者たちは、各テーマに対しての質問や意見を交換する中で「個性は大切か」を主張する【大きな声】に説得され、あるいはその説得の勢いに負けて最終的にこのテーマへと合意したのかといえば、おそらくそうではない。

 というのも、 「個性は大切か」というテーマに決定した後に、このテーマに関する対話を積極的に進め、様々な意見を出した参加者の多くは、当初は「個性は大切か」以外のテーマを希望していたからだ。

 では、「フィロソフィア小石川」では、どのようなことが起きて、テーマの合意が成立したのか?ここで、その場を観察しての仮説を述べたい。

 参加者たちは、テーマに対する質問と意見を繰り返す中で、そのテーマが、実は別のテーマや、あるいは声には出されなかった自分の別の関心と結びついていることを発見していったのではないだろうか。実際、「記録」にある生徒②の発言*4は、「当初、自分が希望していたテーマとは異なるテーマが、実は自分の関心と結びついていた」という発見を述べている。 テーマについての質問と意見の際に、参加者の側で起きていたことは、こうしたテーマと自分の関心の結びつきの発見なのではないだろうか。

 つまり、それぞれがある質問を吟味する中で、それぞれの中で「そのテーマ」に対する見方が変わり、自分の関心と結びついたものとして現れてくる。あるいは、自分の中で気づかなかったら新たな関心が喚起される。あるいは、当初抱いていた自身の関心自体が変容してゆく…。そのようにして、テーマ設定に対する質問と意見交換が一巡する頃には、当該のテーマ自体が、最初に提案されたころのものとは質的に変化している。

 この観察を通じて示されているのは「【小さな声】も汲み取って合意する」ということの可能性についての仮説である。

 その仮説とは、「【小さな声】を汲み取っての合意」とは、「各人の意見の交換のなかで、説得が行われ、多数決によって一つのテーマへと収斂する」というあり方ではなく、「それぞれの意見を聞く中で、それぞれの関心と、テーマそのものが変質する」というあり方で行われる「合意」である。

 もちろん、全員のなかでこうした事態が発生し、すべての【小さな声】が斟酌されたと断言することはできない。だが、小石川フィロソフィアの実践に対する考察には、たんなる「意見の一致としての合意」というあり方以外の「合意」の可能性を示していると言える。

 

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*1:http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/24717/1/clph_14_2_056.pdf

*2:私たちは小石川での哲学対話の活動をこう呼んでいた

*3:この日の参加者は中等4年生(高校一年生)14名、高校大学教員1名、大学生・大学院生などが7名であった。時間は休み時間を含めて100分間。

*4:「私は最初「なぜ勉強しなければならないのか」が気になってて、でもその〇〇さんとか××君の意見を聞いて、自分を表現するとかその行動についての個性まで話が拡げられるのに気づき、さらに自分で考えたのは、よく評論とかで近代的個性とか個人主義とかもあるので、そういうのも、そのもしかしたら個性による弊害も、現代社会であるのではないかっていう点についても触れられるので、「個性は大切か」っていう問いを推します。」