窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

ほらほら、ごらん!これが哲学です!

哲学的創造に自主的にかかわろうとする人による秘密の集まりに行って、その会の名前を決めてきた。

 

専門の東西・時代を問わず、広く哲学を「「哲学とは何か」の再定義の営みを必然的に内包する」ようなものとして捉え、集まった人たちで細々とやっていくよう。

 

どんな会になるのだろう。本当は色々その集まりに参加して思ったことがあるのだけど、うまく書けないのでそれはまた会ったときによければ聞いてください。

 

... 

さて、

 

来年から自分がどうなっていくのかわからないのだけど、所属する大学も無く、後ろ盾にする立派な哲学者もなく、博士学位もなく、無防備に「哲学しようぜ!」とか言ってお金をもらう人になりそうではある。

 

 

ゼミの先生に常々言われていた。

 

私たちは東大や京大じゃなくて一私立大学なのであって後ろ支えになるものはないのだから、学会に出かけて行っても、もうとにかく自分はそのテキストを誰よりも深く時間をかけて読んだんだってことだけを頼りにやってくしかないんだ。だれかにそこの解釈はちがうって言われてもちゃんと自分が時間かけてやってきたことをもとに胸を張って答えられるくらい、それくらい勉強するしかないんだよ。

 

って。

 

 

 今や、頼りにするテキストもない。それでも大人にも子どもにも「哲学しましょう!」って胸を張って言っていくためにはどうしたらいいだろう。

 

周りから「テキストも読まずに、ただただ子どもや大人と対話をするだけ、なんてそんなの哲学じゃないよ!」って言われても、「いやいやこれが哲学です」って胸を張って言えるだろうか。

 

 

いや、でもでも、「これが哲学です!」って胸を張って言い出した途端に、それはもう哲学とは別の何かに向けてずれ始めている気もする。

 

むしろ「はいはい、そうなんですよ、こんなの哲学じゃないかもしれないのですよ、僕もよくわかんない、いつも考えてるけど、わかんない。一緒にそれも含めて考えましょうよ。はい、でお金ください。」のほうが正直ではあるが、なぜお金をもらえるのかはなぞである。

 

でもとにかく、固くなりすぎず、しなやかに、ゆるやかに、哲学する人でいたい。

...

 

行き着く先はきっと、「哲学の専門性とはなにか」、といういつもの問題だ。

 

少なくとも現時点で自分の考えとして言えるのは、それはたくさん物事を知っているという知識によるのではないということ。哲学の専門性は、考えるということの形式のうちにある。批判的思考。問題っぽくないところに問いを見つけ、それを整理して提示し、粘り強くあきらめず考えるような態度というか、姿勢というか、そういうところに現れてくるもの。だから目に見えないし、測れないし、めんどくさい。

 

...

 

このエッセイを書くのは、自分自身の活動の整理のためでもあるけど、哲学の専門性とは何かを考えるためでもあるだろう。あんまり大きな話はせず、むしろ自分の身の回りに起きたことについて書くのが大事だと思っているので、今日みたいなよくわからない話はあまりしないようにします。

 

今年もお世話になりました。楽しい一年でした。

 

来年は楽しみなこともたくさんあるけど、不安もいっぱいです。

来年もどうぞよろしくお願いします。