窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

哲学対話はアクティブ・ラーニングではない?

インフルエンザになりました。

 

学生さんたちには多分にご迷惑をおかけしてしまい申し訳ないです。。予防接種をしていたので、気を抜いていました。。

 

当日の休講なども初めてのことだったし、このあとの補講手続きとかも未知なのでだいぶしんどい。

 

 

でも、病状については、薬を飲んで寝れば一晩で熱については下がってしまうので割とあっけなくもある。今週いっぱいは寮の仕事なども同僚に代わっていただき、自宅で静養させていただきます。

 

持つべきものは困ったときに頼れる同僚。

 

論文を読みました

この秋実はこつこつ某氏と某氏と三人で二週に一回くらいのペースでスカイプにて哲学対話についての情報共有や意見交換会をしていました。

昨日がちょうどその会で、自宅で参加しました。

昨日は私からの提案で下記の論文を読むことに。

CiNii 論文 -  主体的に学ぶことは教えられるか? : 「哲学対話」の実践を通して考える

著者の古賀裕也さんは大変お世話になっている先輩です。大変懐の広い方なので、私たちが知らないところで好き勝手言っても許してくれるに違いないと確信しての選出でした。

 

以前読んだことはあったのだけど改めて読みながら、エモいなぁとドキドキしてしまう。アクティブ・ラーニング=ALが私たちに開く教育をめぐる根本的な議論として、強制と主体の問題を提示したあとで、示される根本的な問いがすでになんかエモい。

 

もし強制が隠されることなく、しかも生徒がいかなる主体措定からも遠ざけられることに成功したら、そのとき教室にいるのは一体「誰」なのか。

 

おわかりだろうか。なんかエモいのだ。

 

さて、会で話したこと全てはここには記せないけれど終わって思ったことをひとつだけ書く。

 

哲学対話はアクティブ・ラーニングではない?

 

古賀論文の味わい方はいろいろにあるはずだけれど、そのうちの一つはこの主張にあると思う。

 

論文の構成として、第1節、第2節で、アクティブ・ラーニングの説明をしつつ、フレイレを持ち出して、ここにも強制や主体をめぐる問題の隠蔽があると指摘している。(その問題の核心は古賀さんによれば先の引用部にある。)

そのうえで、第3節以降で、最近はアクティブ・ラーニング的な取り組みの一つとして理解されることも多いであろう哲学対話には問題に対して別視点から光をあてるだけの可能性があると論じている。

 

その意味では、一般的なアクティブ・ラーニングにはない可能性が哲学対話にはある、という主張をしているように読めると思う。

(あるいは、本当の意味で「アクティブなラーニング」こそが哲学対話だとも読めるのかもしれない。)

 

そのポイントは大きく分けて、

①哲学対話はあえて「うまくいかない」ことも含めて問題を問題として露わにする(強制の問題を少なくとも隠蔽しない)

②哲学対話において驚きの感情が重視されることで相互にケアする関係をもちうる「他者」との出会いが起きる

 

といった点にあると思うのだけど、ここではこれ以上は立ち入らない。

 

狭義の哲学対話と広義の哲学対話

哲学対話は「いわゆるアクティブ・ラーニング」とは違うんだ、と古賀さんがどこかで思っているとしてその気持ちはわかる気がする。

 

そして、この違いを言いたいときに、これも言い方は様々であれ、しばしば用いられるのが哲学対話は単なる方法ではなくて教育観であるのだ、というようなアイデアだ。先の論文でもこれを広義と狭義として語る箇所がある。

 

いわゆる「哲学対話」は狭義には具体的な教育実践である。だが広義には、「哲学対話」を通して共有された独特の教育観でもある。この教育観なしに「哲学対話」はあり得ない。

ふむふむ。

そして古賀論文の示すその教育観とは。

 

それは教員にとって、自らが果たす教員の本質を問い直し、授業や教育をも問い直すことである。だがそれは、単なる懐疑や破壊ではない。ただひたすらに、既成のいかなる教育観、生徒観、授業観、学校観をも遠ざけようとし続けることである。

[中略]

もし哲学対話に意味があるとしたら、新たな占有地を主張するのではなく、すでに作られてしまったそのような場を解体し続けるような禁止的措置として執拗に遂行されつづけなければならない。そのような根本的な機能を果たしてこそようやく、「哲学」の名を冠するに値するのではないだろうか。

広義の哲学対話=哲学対話の教育観とは、教育の問い直しであり、さまざまな「観」を遠ざけ、今あるものたちを解体することにある。

 

ここに参考文献等の指示がないので、他の主張や論考との関係は十分にはわからないのだけど、説得力がある。

 

この話は、多分、哲学対話をやりながら、実践者や関心を持った人たちと「なぜ哲学(対話)なのか?」とか、「哲学をすべての子供たちにやらせようとするのは危険な面はないのか?」といった問いと絡めて話し続けてきたこととつながっている。

 

哲学は哲学であるゆえに、自分自身の足場たる学校や教育そのものをも問おうとする。今国内で狭義の方法論としての哲学対話の実践に取り組む人は、この教育観に魅力を感じている人が一定程度いるのだとおもう。

 

僕自身もそうだ。

 

じゃあこれはどんな学校でも求められる?

もう終わりにするけれど、書きたかったのはここからのことで。

いろんな形で日々考えていることに突き当たる。

 

「アクティブ・ラーニングや探究活動の一種として哲学対話やりたいので手伝ってほしい」みたいな依頼が私の界隈にも最近はある。

 

でもこっちは、ある意味ではもっと意味不明な教育観としての哲学対話が気になっているし、その可能性を先生たちと考えたてみたかったりする。

 

でもでも、たいていの場合そんなことは求められていなくて、たくさんある「対話」的手法のうち、深く考えたり出来そうな「哲学」に注目が集まる。そういう、いつもの、といえばいつもの話に改めて行きつくのでした。

 

 

妻に言われる

そんなさなか、妻も古賀論文に目を通していて、あなたも論文書きなよ!と言われる。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 

休まねばと思いつつ、、

学校に置きっぱなしの資料などを取りに行きたい気持ちに駆られるも妻に静止されます。

まずは休まねばと思いつつ、授業のないタイミングでいくつかやっておきたいことが思いついてしまうのでした。。

 

「公共」の教科書から「基本的人権の保障」や「平和主義」は消えるのか

新科目「公共」の教科書から「基本的人権の保障」や「平和主義」は消えるのか

ツイッターしてたら3000件近くのリツイートを集めているこんなつぶやきがあった。

 

 

主に2022年から実施される学習指導要領の新設科目「公共」についての言及であるようで、自分も関心をもっているので、自分に調べられる範囲の簡単な検証をしてみました。

 

 

どれくらいこの私の指摘が有益かつ正しいものかわからないのだけど、上記のつぶやきに学生さんがいいねをしてくれたからやめづらくなってしまった。

ツイッターでつぶやいたときに書いた下書きのメモに、若干の補足をして載せます。

 

前提:確認するポイントを絞ります。

2022年度から実施される高等学校の新学習指導要領に基づき高校の教科書から「基本的人権の保障」と「平和主義」が消える、という主張について考えます。(中学校まで見る余裕がないので高校に絞ります)。特に、根拠として提示されている下記リンクからそれが読み取れるのかを確認します。

www.nhk.or.jp

 (元ツイートの投稿者の方の意図には、自民党による改憲案と新学習指導要領との関係性を指摘することがあるように思いますが、それはここでは問題にしません。)

 

①新設科目「公共」の学習指導要領において、「基本的人権の保障」と「平和主義」は削除されているのか。

→(現行の「現代社会」と比べてみると)削除されているように見える。ただし、「基本的人権の保障」については、「内容上の取り扱い」という項目で、「その際,主題に関わる基本的人権の保障に関連付けて取り扱」うように指示がある。また、そもそも現行のものと比べてみたときに、平和主義だって一回しか出てきていない、というのはある。

さらに、同時に文科省が示した「解説」の「公共」の項目のなかでは、「基本的人権の尊重」ならびに「保障」に触れた表現が7回(選択科目である「政治経済」にまで範囲を広げると30回以上になる)、「平和主義を掲げる日本国憲法の下」のような表現が3回出てくる。

www.mext.go.jp

 
【追記. 2019. 1.17】

もとツイートの方のお話をもう少し詳しく見てみると、「基本的人権の保障」(憲法11条に由来する?)と「基本的人権の尊重」(憲法13条に由来する?)を区別されたうえで、後者は残ったとしても前者が削除されるということを指摘されている。ここは私はあまり区別せずに考えていたので、よくなかったかもしれない。

ただし、現行の現代社会の教科書を複数見ても、日本国憲法の三大原理として説明されているのは、「基本的人権の尊重」という文言で、これが11条~13条までをカバーするような用語として説明されることもあるよう。いずれにせよ、もう少し考えてみないといけないところではある。


②学習指導要領から文言が削除されたことにより、教科書からも消えるのか。

→理論的にはそう主張することもできるかもしれないけれど、現実的には消えないんじゃないかなあ。理由。当該文言はなくとも、個人の尊重、法の支配や民主主義についての知識を身に付けるべきこと、またこれを「日本国憲法との関わりに留意して指導すること」とある。そうすると、現行の現代社会の教科書のように、日本国憲法の基本原理として、基本的人権の尊重や保障や平和主義について触れるほうが教科書をつくりやすいと思う。2022年から順次教科書から「基本的人権の尊重」や「平和主義」が消えていく、というのは考えづらい。

学習指導要領に書いていない文言を全く教科書に記載してはいけない、取り扱ってはいけない、ということではないからです。


さらにいうと、また、選択科目として残る「政治経済」の授業でも補完がある程度可能かもしれない。(2単位科目の「公共」のみで高校公民科終わり、という学校はあまり多くない?)

 

まとめると

1. 確かに削除されているようにも見えるけれど、もともとそんなに頻出していた用語ではないし、教科書の憲法についての内容は指導要領の他の文言や「解説」によって現行のものと大差のないものが出来上がってくるのでは。ただし、取り扱われ方は変わるかもしれない。

 

2. それでも、学習指導要領の書き手は、わざわざ当該の文言をある箇所においては削除したわけで、そこにはどういう意図があったんだろう?書き手は複数いて、相談しながら書きますよね?そのときに、他の箇所で意味は伝わると思うけど、文言としても「基本的人権」残しといたほうがよくない?という話にはならないものなのかな。

個別具体的な単語を入れることよりも、概念や理念を示すほうがよいと考えたのかな。勉強不足でよくわかんないです。

 

3. 「公共」を論じるのであれば、「基本的人権の保障」や「平和主義」の削除を取り上げるのは、あまり正攻法ではないように思えて、もっと批判的に検討すべきことはあるのでは。今回の改訂のポジティブな面も、ネガティブな面ももっと別にあるのでは。

それはたとえば端的に道徳教育とか。こちらについてはもっと勉強します。

 

 

補足1:「愛国心」の方はというと

高校の「公共」に限って言うと、確かに次のような文章が学習指導要領にはあります。

よりよい社会の実現を視野に,現代の諸課題を主体的に解決しようとする態度を養うとともに,多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される人間としての在り方生き方についての自覚や,国民主権を担う公民として,自国を愛し,その平和と繁栄を図ることや,各国が相互に主権を尊重し,各国民が協力し合うことの大切さについての自覚などを深める。*1

この箇所について「解説」はこう言っています。

国際社会において大きな役割を担うようになった日本の在り方を,公共的な空間に生き国民主権を担う公民として多面的・多角的に考察,構想し,表現できるようにすることを通して,家族,郷土,自国を愛するとともに,国際社会の中で信頼と尊敬を得る人間を育成していくことが極めて大切であることを示している。その意味で,ここでは,グローバル化が一層進展する中で国民的自覚や自国を愛することを国際的な視野に立って深めていくことを示しているのである。*2

www.mext.go.jp

確かにこれは愛国心についての教育、と読める。

どんな教科書になるんだろうなあ。

じゃあ、これをどう考え、批判していくのかは今の自分には身に余るので、宿題にさせてください。

補足2:高専は?

高専は、高等教育機関なので、直接には学習指導要領の影響下にはありません。ただし、独自に全国の高専での教育の質を保証するために、「モデルコアカリキュラム」を作成し、指針としています。そこでは特に社会科を含む一般科目は新しい学習指導要領の動向を踏まえたものとなっているので、間接的な影響はあります。

http://www.kosen-k.go.jp/documents/mcc_20171128.pdf

私は今「現代社会」という授業をもっていて高等学校の教科書を使用していますが、2022年以降は高校で「現代社会」という科目がなくなるわけで、そうすると「公共」の教科書を使うことになるかもしれません*3

そういう間接的な影響を受けます。

 

おわりに:公共についてはこれで勉強しましょう。
新科目「公共」 「公共の扉」をひらく授業事例集

新科目「公共」 「公共の扉」をひらく授業事例集

 

 公共と道徳教育についても、日本道徳教育学会会長の押谷由夫先生が書いている。勉強せねば。

*1:文部科学省、平成30年改訂「高等学校学習指導要領」第3節公民 第1款目標 92頁.太字による強調は引用者による

*2:文部科学省、平成30年改訂「高等学校学習指導要領解説 公民編」34頁.太字による強調は引用者による

*3:別に検定教科書を使う必要もないのだけれど。

続・今日の哲学対話はどうすれなよかったんだろう

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

 この記事を書いた翌日に、別の学年・クラスで やった哲学対話の話。

 

 

グループワークをしようかな(事前の計画)

対話よりも講義のほうがしっくり来る感じもあり、どうしようかなと悩みつつ。 

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

それでも今回は哲学対話をやるぞ、と決め、一つ前の授業で「労働者の権利」とか「ブラックバイト」とかについていくらか講義をしたあとで「仕事やお金」について一人一つ問いを紙に書き提出してもらい、こちらで全て問いを打ち込み、A4用紙に印刷しておく。

でも、みんなで哲学対話をやるのは不安だし、学生からのコメントには、「40人での哲学対話は人数多すぎる」みたいなことも書いてあったし、、と思い、4人組で話してもらうほうがいいかなあと考える。

でもでも、教員の目が届きづらいとどうしてもサボりたくなっちゃうかな、だったらワークシートを作ろう。①問いについての最初のみんなの意見 ②Qワード*1に即して考えを深めてみる ③改めて考えること の三段階でグループで一枚。

ということで、ワークシートも持参し授業に乗り込むのでした。

 

賃金が低くて楽な仕事と賃金が高くきつい仕事どっちがきついか

とあるクラス。

問いを決める段階から、ある程度にぎやかに、進む。感触悪くない。

問いが決まり*2、全体で輪になる。

二択の問いだから、とりあえずみんなの第一印象を手を挙げてもらって、特に挙手がなければ、グループで話してもらおうかなー、と思ったいたのだけれど、

問いの前提を問う発言*3から始まり、ダイレクトに二択と問うよりも確かに大切な話が挙手の発言によって始まった。

結局、10人くらいの人が自発的に話してくれたのかな*4。グループにする暇なく、25分~30分くらい、みんなで考えた。

 

自分が働いているところがブラックバイトだと感じたらどうすれないいか

また、とあるクラス。

こちらは問い決めは沈黙。なんとか問いを決め、全体で輪になる。

挙手はなさそうかなと思った*5ので、アルバイトをしている学生の愚痴やブラック度をエピソードで話してもらう。これがウケる。割とよく聞く。一人が話し終わったらまた別のバイトをしているクラスメイトに話をふってもらう。身近なことだからか、話がつながる。いろんなバイトの話を聞きながら、ブラックなバイトにおける上司や店長の存在の重みについて、考える。*6

 

気をつけたいこと

こんなふうに書くとそこそこうまくいったような感じになるし、私自身もよく考えられたなという感じがするのだけど、40人を超える円では、発言しなかった人のほうが多い。その人たちは聞きながら、どれくらい考えてくれていただろうか。つまんないなあ、と思っていた人のほうが多いかもしれない。大福帳に書いてもらうくらいでは、実は確かめようもなかったりする。

授業という強制参加の場で、考えることを求めることの暴力。

 

なにが要因?

かは、わからない。

わかっているのは、アンパンマンを素材にしたほうが話しやすいんじゃないか、とか、40人での対話はやっぱり難しいかな、とか労働なんて小難しそうなテーマのあとに問いを立てても難しいかな、とかいうこちらの浅はかな目論見は簡単に破られるということだ。

対話をする人の関心や気分がどこにあるのか、なんてわからない。

「みんなの関心はどこ?」と問いたくなるけど、「みんなの関心」なんてないはずなのに、でも、少なくとも「その場の関心」はある気がする。

わからないから難しいけど、わからないから楽しい実践という面もある。

 

おまけ

 

学生さま、というのは言い方がまずいな。学生さんにしよう。

*1:「なんで」「他の考えは」「反対は」「もし〜だったら」「そもそも」「立場を変えたら」「たとえば」「くらべると」

www2.nhk.or.jp

*2:省略するけど、40個以上の問いの候補から一つに絞るのは、なかなか難しい作業ではある 

*3:賃金が低いというけど、いくらくらいなのか。や法律は守られているのか、などなど。

*4:年末の放課後にやった哲学対話の会に参加してくれた方が何度も話を展開してくれた。きっかけになってくれていたのならうれしいな。

*5:ああ、書いていて思うけれど、実際に挙手があったかなかったではなくて、場の雰囲気でこちらが勝手に「挙手はないな」と判断していたのかもしれない

*6:細かいようだけど、全体で輪になったときにスマホを触る人たちが複数いて、最初にちゃんとそれはやめようと伝えて、しまうのを確認して始めたのはよかったのかもしれない。