窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

哲学カフェ&徳山駅前蔦屋書店に行く

すごーく、久しぶりに哲学カフェに行きました。

東京にいた頃も、イベント事で呼んでもらって進行役をすることはあっても、カフェで開催されるものに参加者として出かけることはほとんどなくて、しかもこちらに来てからはさらに縁遠くなってしまっていた。

行ったのはこちら。

39032997.at.webry.info

山口県で数少ない哲学カフェ*1

で、かの有名な「哲学者の小川さん」が進行役をされている。*2

 

 

 

 

ここで書いた通りで「悪とはなにか」をテーマにした回は、小川さんの進行でこぎみよくスタートし、常連と思われる参加者の方達を中心にスピーディーに展開していく。ゆっくり考える、とは違うけれど、でもいろんな声を聴きながら自分は自分でムクムクと考える。

 

これはゆるやかに職業病的な目線になるのだけど、対話を楽しみ、ただただ考えるだけでなくて、参加しながら「場の作りはどうかな?」「不満そうな人はいないかな?」とか「自分だったらどう進行するかな?」みたいなことを考えながら参加してしまう。

初参加の緊張感や常連さんたちの作り出す雰囲気や自分の考えたいことと進行役の人の仕切り方のズレ、それを指摘したくてもタイミングを見計らってるうちに置いてかれてしまう感じ。こういう参加者としてそこにいないと感じないあれこれをちゃんと味わう。

f:id:p4c-essay:20181118163029j:image

哲学カフェの進行役にできること

もう少し思うことを。

ボカしながら書きます。

とある方がご自身の考える「悪」について少し長めにお話しになった。おそらく常連の方で、話題をご自身に引き付けながら長めに話していて趣旨がとりづらい感じ。進行の方からもやわらかい感じで「手短にお願いしますね!」と釘をさされていた。たくさん話したわりに進行役のまとめはあっさりしたものになってしまう感じのやつ、です。


他方で別の方にはその方のバッググラウンドに関係する専門的な観点からの「悪」についてコメントを求める。その発言が専門用語が混じって難しく、少々長いものになってもそこは比較的自由に話してもらう。

 

お二人とも常連のようだったし、終始和やかに進んでいたとは思うのだけど、でも、実は真剣に耳を傾けるべきは、前者の方の言葉だったかもしれないと終わってから思い出す。

その人の言葉は不明瞭で自分の人生経験を披露するようなところは多々あったけれど、その人自身から出た言葉だったから。

 

哲学カフェの進行役で自分が大事したいことの一つは、他の参加者だったら気づかずに通り過ぎてしまったり、時には鬱陶しく思われるかもしれないような発言のなかにある「その人の言いたいこと」を引っ張り上げること。

それと他の参加者だったら「あー、なんかよくわかんないけどすごそうだなー」と思っちゃうような権威っぽい発言に対しても「何「よくわかんないです。専門用語じゃなくて言うとなんですか?」とかズバズバ聞いていくこと。

そんなことかなあと思ったのでした。

お互い名乗らず職業や性別や年齢や学歴を超えて一緒に平等に探究することを目指すんだけど、それはやっぱり難しい。その場にある先入観や雰囲気を打破しやすいのはホストたる進行役が1番適任だろうと思う。

いやまあ別に特別なことはしなくても、ただただ考えていくなかで、それを誰が話したのかは気にせずに、よく話を聴き、気になったことは掘り下げ、よくわからなかったことを素通りしなければいいんだろうけれど。。

 

 

 



 

 

妻は何を考えたか

このあたりの言葉の感覚はさすが、という感じがする。具体例は出ていても、決して具体的な対話にはならず、上滑りしてしまうことはある。

もちろん、哲学(をする)カフェで、その場で話されていることが具体的かどうか=自分ごとかどうか、を重視するかどうかは立場の違いかもしれない。「悪とは何か?」という問いを考え抜ければそれでよいのかもしれないけれど、妻にとっては(私にとっても)それじゃあ物足りないところがあるのだ。

 

 周南・徳山はいいところだ

終わった後徳山駅周辺を散策。失礼ながら適度に寂れながらも美味しそうなお店もあって、楽しい。宇部も負けたくないけど徳山は新幹線駅なのだ。

 そして新幹線駅には、ピカピカの市立図書館が併設されている。

shunan.ekimae-library.jp

しかもここ、蔦屋書店とスタバと区切りがないような空間デザインになっていて、コーヒーを飲む、本を買う、本を読む、本を借りるが連続してできるようになっている。昨日はたまたま松本零士トークショーをやっていたりして、いろいろ活発な感じ。なかなかすごい。

滞在して見つけた本(買ってはいない。)

ビジネスモデル2.0図鑑

ビジネスモデル2.0図鑑

 
入門・子ども社会学: 子どもと社会・子どもと文化 (MINERVA TEXT LIBRARY)

入門・子ども社会学: 子どもと社会・子どもと文化 (MINERVA TEXT LIBRARY)

 
子どもをめぐるデザインと近代―拡大する商品世界

子どもをめぐるデザインと近代―拡大する商品世界

 

 これは妻が読んでいた本。

でも改めて調べてみたら、この徳山駅前の蔦屋書店&市立図書館をめぐっては、一悶着あったらしい。

www.huffingtonpost.jp

基本的には計画の見直しを求める人たちによって、住民投票が請求される。

↓ 

でも議会で、住民投票条例制定案は否決されてしまう。

山口新聞/ニュース

そして今年2月にオープン。

www.wwdjapan.com

 

昨日見た限りだと若者もいて、学生が勉強していて、高齢の方も新聞読んでて、すごく多くの人が行き交っている。その点では成功なのかもしれないけれど、決定までのプロセスや民間委託、公費投入、図書館の公的機能などなど、もっと勉強してみないとなんとも言えない感じもする*3

もう少し早く知っていれば、「現代社会」の授業で取り上げたらよかった。

帰りに見た工場夜景は大変すばらしかった

https://www.city.shunan.lg.jp/uploaded/attachment/29043.jpg

(ちょっとこの画像は編集がかかりすぎていて、微妙だ。。)

ブログのタイトルを変えました

ずっと(仮)をつけていたので、思い立って。

特に「発狂」という言葉に思い入れはないのだけど。

末長く続きますように。

*1:調べると2010年〜13年ごろにはこういった活動歴をもつ哲学カフェがある(あった?)らしい。

www.facebook.com

わが町宇部でも2010年に開催されているではないか!古参!

atnd.org

*2:ここから書くのは、いささか辛辣な書きっぷりに見えるかもしれないけれど、大いに自戒の念をこめています。それにもし「哲学者の小川さん」の目に触れても寛大な心でお許しくださると信じています!!

*3:Wikipediaには事の経緯がある程度まとめられている。それによれば駅前事業としての構想から開業までは15年かかっているらしい。

周南市徳山駅前賑わい交流施設 - Wikipedia

後期の授業とかクラスという単位のこととか

ブログの更新をしばらくサボっているあいでに、いつのまにかブログのアクセス数が10000を超えていた。

多分ツイッターのフォロワーがちょこちょこ増えている影響で見ていただいているのだと思うけれど、どうもありがとうございます。ブログの反響というのはなかなかないので、みなさんがこれを見てどう思っているのか、わからなくて不安もありつつ、どうもありがとうございます。

これからも細々とやっていきますので、よろしくお願いします。

 

後期が始まりました

本校は4学期制を採用しているので、第三クオーターの中盤です。一つの授業(90分)を週二回やり、8週で試験までやって単位、というスケジュール。なかなかあわただしいなかでやっています。

前期にはお会いしていなかったクラスとのはじめましてから始まり、少しずつ慣れてきたところ。クラスごとにカラーがある*1のに合わせつつ、なんとか対応する。

 

でも、「あのクラスはやりやすい(やりづらい)」みたいな感覚って、どう考えても存在するけど、でも学生と個で向き合うことを阻害してしまう見方な気がして、よくないよなあああ。

 

で、だらだらと授業準備と称してパソコンに向かうのだけれどなにも決まらずだらだらとツイッターを眺めるような生活をしています。

 

 
今学期試していること

「哲学対話」を含むワークの時間をやはり多めにとっています。

そこで、これまでと変えてみているのは、対話の終わりに大福帳でコメントを書いてもらうことに加えて、スマホを使ってoffice365の"Form"にアクセスしてもらい、対話のふりかえりアンケートをとること。

 

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

 

 

本当はこの本を読んで、そもそもスパイダー討論にチャレンジしようと思ったのだけれど、 グループ(本には16,7人が適正人数とあるので)を3つくらいに分けるとこちらが見切れないこと=多分なにも話さないか、ふざけちゃうことを理由にやっていない。

その代わりに*2、本で示される「ルーブリックづくり」からアイデアをもらって取り組んでみています。

 

具体的にやっているのは以下のようなアンケートページを作り対話のあとにスマホでアクセスしてもらって回答してもらう。

 

f:id:p4c-essay:20181114175854p:plain

 

結果の一例はこちら。

 

f:id:p4c-essay:20181114175935p:plain

特にだれが回答したか、していないか、ということはチェックしていないし、対話のあと、休み時間の前に大福帳も書き、スマホでふりかえりに答える、というバタバタとしたなかで9割は答えてくれているので悪くない。

 

匿名ということもあり、評価は雑な面もあって、全部5、とか全部1、とかつけている学生もいて、評価の平均値は高めに出るけれど、それでも全体の印象は私の印象とも重なる感じ。(「おとなしい人、声の小さな人も安心して発言しやすい雰囲気ができた。」は毎回低く出る。)

 
どう活用していこうか

↑と同じクラスの今日の回は、自由について考える哲学対話を90分やろう、という回だったんだけど、明確な問いを決めずに、こちらがゆるゆると入ってしまったのが大きく、最後までぐだぐだっとしてしまった。そうすると点数は低い。

f:id:p4c-essay:20181114181624p:plain

こんな感じ。

 

 

こんな感じでやってみていて、後期全体(第四クオーター)も通すと8回分くらいのふりかえりができる(今は3回)ことになるのだけど、これをどう活用していくのがよいか、考え中。

 

たとえば↑の回では自由記述欄にも「今日の対話に意味を感じられなかった」というコメントもあったりして、「モウシワケナイモウシワケナイ」と平謝りの気持ちがある一方で、「対話をするのは私だけじゃなくてみんななのだからみんなで意味あるものにしていこうよ!」という気持ちがある。

 そもそもルーブリックを示し、学生たち自身に評価をしてもらおう、それによって自分たちで対話をよいものとしていこう、という発想のもとにそもそものスパイダー討論の魅力があると感じたはず。

それなら、もっと対話の前に毎回この観点を示して、哲学対話でこれをやるんだよ、ということをメッセージとして打ち出したほうがいいんだろうと思っている。

 

クラスという単位で考えること

上記のルーブリックの話のなかで私自身が錯綜しているかもと思うのが、クラスという単位のこと。教員として「あのクラスはやりやすい(やりにくい)」はあまり持ちたくない(学生と個として接することを妨げる気がするから)ことは先に書いたけれど、一方でルーブリックによるふりかえりを通して目指したいのはクラスという単位での成長だったりする。

クラスぶっ壊したいと思いつつ、クラスでの成長を望むのはどういうことだろうか。

「子どもの哲学」でリップマンは「探究の共同体」ということを言っていて、共同体としての探究と成長というのは重要だというのはおそらく間違いがないのだけれど、それを今の教室でやろうとするのは、どういうことになるんだっけ。

高専はそのあたりでいうとクラスという単位で授業外の活動をすることが(普通高校と比べて)少ない。でも授業はほぼすべてクラス単位で受けるという微妙な構造になっている。たとえば1年生はおそらく自分のクラスメイトの顔と名前をすべて一致させていない人ばかりだし、クラス持ちあがりのまま2年生になってもそういう人もいるくらい。それくらい結びつきが薄いなかで、それでもクラスという形は維持しつつ、ときどきやってくる哲学の教員はクラス単位での対話を求める、というのはどういう感じなんだろう。

 

 

おまけ:今日思ったこと。

青年期について勉強するときに浅野いにお作品を紹介すればよかった。

 

過激だけど↑のなかの「TEMPEST」は高齢化社会をわかりやすく風刺したディストピアになっていて授業でも使えそう。

あと、短編集のなかでは特に「都会と田舎」ということについて思いをはせることが多かった。

よきよき。  

勇者たち (裏少年サンデーコミックス)

勇者たち (裏少年サンデーコミックス)

 

こっちはこっちでなんというかすごい。 

 

*1:やめようやめようと思ってもクラス単位で「あのクラスは~」という見方を離れられない。約40人の一人一人いろんなこと考えて授業受けてくれているはずなのに、一部の学生の反応に引っ張られて雰囲気を判断してしまう。よくない。

*2:某ブログで、様々な教育実践の”つまみ食い”を批判されていたように思っている。つまり優れた実践のパッケージはまずはそのまま最初から最後まで計画されたものとして採用すべき、と。自分自身もその通りだと思っているのだけれど、スパイダー討論も質問づくりも、本で示されていることやポイントから自分でアレンジしてしまっている。よくない。

後期が始まるうう

授業は嫌いじゃないはずなのに、授業が始まるのが嫌でたまらない



高専は夏休みが二ヶ月あって、明日から後期の授業が再開です。

 

二ヶ月もあったのだから前期のことをしっかり振り返って、計画をして、とすればよかったのだけど、ぐだぐだと急ぎではないことばかりにかまけてしまい、もう前日。前期のストックがあるとはいえ、自転車操業になりそうです。

こんな本たちを読んでいた。

 

 

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

 
「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる

「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる

 
イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

 

 

 

 

前期と後期で受け持つクラスが変わるので明日は初めましてのクラス。授業概要を説明して、コミュニティボールを作る予定。

 

新しくやってみること

前期にやらなかったこととして、

「授業をするうえでの約束事」を明示してみようかなと思っています。

教員が約束すること
  1. みなさんにとって意味のあることだと信じた内容を一生懸命授業します。​
  2. 評価や授業の進め方を含むさまざまなことについて理不尽なやり方をしません。​
  3. ほぼ全ての質問、正当なクレームや問い合わせについては真摯に対応します。​
学生に約束してもらいたいこと

一緒に授業を受けている人にも、小川にも、迷惑をかけないでください。​

もう少し積極的に言うと、​

授業を真面目に楽しもうとしている人のジャマをしないでください。

 

 

すごく当たり前のことなんだけど、学校で授業を日々回しながら、上の3つを100%守り通せている自信は情けながらないのです。でも、それは学生さんも(他の教員が多かれ少なかれズルをしているのを)わかっているのではないかという気もする。だから、お互いに授業がなあなあになっていく気がする。

だからこそ、ちゃんと宣言をして、いけるところまでやってみて、最後に厳しい評価を仰ぐことにしようと思います。

 

現代社会」

さて、後期からは「現代社会」という科目を持ちます。今日あらためて教科書を読んでいたのだけれど、あんまり楽しくやれるアイデアが湧いてこなくて、絶望感が募るばかりだった。どれも大切なことなのはわかるんだけど、どうやったら学びたいと思ってもらえるかがわからなくて混乱してしまう。

ただ、ちょっとヒントかなと思ったのは

扉部分にあったこの言葉。

 

現代社会を幸福、正義、公正の観点から考えよう

現代社会のあり方を考察するための枠組みとして「幸福」「正義」「公正」を理解するとさまざまな課題の全体像が見えやすくなる。

 

f:id:p4c-essay:20181009233551p:plain

現代社会の教科書ですら具体的な出来事や語句や年号やが太字で目立つ。けれど、政治も経済も倫理思想も、ある意味では、(しばしばぶつかりあうような)私とあなたや、私たちとあなたたちの幸福追求をどう公正な仕方でバランスをとるのか、という問題として理解してみることができる。

こんな風に教科書は提案していると思う。幸福はまたなんとかよいとして、ここでの正義と公正がどういう意味なのかはよくわからないのだけれど、まずはそう捉えられれば、哲学対話だってできそうだし、身近なこととも結びつけながら考えられそうだ。

 

f:id:p4c-essay:20181009231021j:image

 

ただし、そうなると授業は、

そもそもなぜ自分だけ幸せであろうとしてはいけないのか?

とか、

他人のために自分が犠牲ならないといけないのはなぜか?

みたいな利己主義者の問いと対峙することになるのかもしれない。それはそれで楽しいけれど、普通社会科は、単なる他人を容赦なく蹴落とすような利己主義者(あるいはフリーライダー)であってはならない、という自明の前提から出発するものなのかもしれない。

 

とにかく始まるものは始まるのだ

まあ始まるのだ。

 

 

とにかくやってみましょう。

みんなで生き延びましょう。



 

あー、コミュニティボール切るための裁ちバサミを買うんでした。残念。