先輩の先生方に部活動のことをお任せしていることで、得られる週末の時間に感謝しつつ過ごしています。
金曜日のとある宴席で、久しぶりに
「「哲学」とか「倫理」の授業って、なにを教えているんですか?」
「哲学って結局なにをするんですか?」
と問われ、答えに窮する。無難に、「答えの容易に出ない問題を考える力って技術者にも必要だと思うんです。そのための練習を対話などを通じて、一緒にやれたらなあと...」と答えたつもりだけど、なにを言えばいいんだろうなあ。
某新任研修のための事前課題として、「カリキュラムや授業の目標の立て方」みたいなのも勉強しているのだけど、あらためて「お前の授業はなにをしているんだ!」と問われると、ぐらぐら、ゆらゆらしてしまう面もあるんだよなあ。
「学生たち、話します?話さないよねえ」
とも言われる。おっしゃるとおり、みなさんなかなか話してはくれない。でもそりゃあそうでしょう。40人の教室で教員に問われて、じゃあ自分が手を挙げて答えようかな、って思う人はそうそういないでしょう。あと、それを最近の学生の消極性や傾向みたいなことと結びつけることもしたくない。だって、教員集団だって、会議とかで(カッコ付きの)「自由な」発言が許されても、たいていの人は下を向いているでしょう。
自分だって、授業を受ける側だったときは自分から発言なんてしなかった。そういう意味では、むしろ、教室や会議室の設計として、いつのまにか授業をする側になった途端、べらべら(ある程度気分良く)話せちゃうその感じがよくない。40人もの人が、一応こちらが教卓を挟んだ向こう側の先生だから、という理由で話を聞いてくれるというその感じ。
今話さないからといって、対話の場をもつことが意味がないとはなぜか思えない。それは話さないからといって考えていないわけではない、からでもあるけれど、もっと授業とか教室とかの「つくり」を授業をする側で変えてみることはできるはず。早々に、学生のほうに非を押し付けちゃいけない。
そんなこんなで、授業は日々進みます。
【勤務校の学生へ】オフィスアワー時間帯に限らず、なにかあればどうぞ部屋を訪ねてください。ちょっとおしゃべりしていくだけでもよいし、「問い」を持参してくれてもよいです。特に話さずに一休みしていってもらってもよいです。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年5月21日
こんなツイートを出しておいたら、学生さんたちに見つけていただいたようで、良い時間も過ごすことができて、楽しかった。いまいち、距離感が掴めなくて、こっちはあたふたしているんだけど。
早速何人かが放課後、研究室を訪ねてくれた。いつのまにか哲学対話をしようということになり、「自由は必要か」「神はいるのか」について考える。おがぢも司会じゃなくて一参加者として迎えてくれたのがうれしい。また、一人でもだれかとでもいらしてください。#高専てつがく
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2018年5月22日
こういうこともあるから、授業はもちろん授業としての目標の達成を目指しつつ、教室の外での不規則な交流に向けた種まきにもなればいいな。
( 宇部興産全景 © 宇部市 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)
しかし、哲学とは
昨日は家で妻と鍋をつつきながら、お酒を飲む。
楽しく飲んでいたんだけど、いつのまにか、妻に、「お前の書く文章は一般論ばかりで、何が言いたいのかわからん」という趣旨のことで詰め寄られる。一生懸命自分なりに答えんとするけど、一番痛いところを言い当てられていることもあって、情けない限り。両論併記でなんとなく読者に問いかけつつ、自分自身のことは大して語らない文章。確かにそんなのほんとのところ面白くない。
妻曰く、
哲学者の書く文章って「お前はだれなんだよ、神かよ!」って気持ちになるんだよ
神じゃないよ、ビビってるだけなんだよ。そして哲学しようぜ哲学しようぜって言ってるくせに、いつのまにか自分自身は本気で考え抜くことをしなくなってしまっているのだ。
さらに妻は
あなたは自分の書いたものに納得してるの?
私は私の書くものについては毎回結構納得してる。
ああ、ごめんなさい、納得しきっていないから自分では某ニュース記事も告知していないのです。
翌朝このやりとりの詳細を妻が忘れてしまったことはご愛嬌。
今週もがんばります。
そんな妻のブログはこちら。