窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

(物理的に)引っ越しました

引っ越しました

瀬戸内海に面した街に引っ越しました。

 

四月からも、やることはそんなに変わらず、社会科系の授業を担当したり、哲学や教育について研究したり、哲学プラクティスにかかわったりする予定です。

 

東京を離れたことでできなくなることや、参加できない集まりもあると思うけれど、新しい立場上できることになることもあると思うので、またがんばります。

 

このブログも日々のことを綴りつつ、続けたいと思っています。

 
窓を開けておく

プロフィール画像とか変えたいなと持って、写真フォルダを探していたら、去年撮ったこんな写真が出てきて良い気持ちになった*1

 

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窓は、いつも子どもたちのために

あけておかなくちゃいけないんです。

いつも、いつも。

 

学校や教育って、窓をとじてる感がすごい。

これからますますそれに巻き込まれていく自分も、

ほっとくと驚くくらいに窓を閉じていってしまいそうだ。

 

こんな気分で日々のしごとに取り組めますように、という思いを込めて、

しばらくはプロフィール画像にしてみます。

 


 

 

 

 

*1:ここで撮ったもの。

madoken.jp

教員も同じようにする、いる。−哲学エッセイのこと

 某授業では、今年度の終わりが近づいてきて、哲学エッセイと称して、自由に問いを立てて、考えを書いてもらうという課題を出している。4,50分時間をとったけれど、案の定授業内で終わるはずもなく、多くの人にとって持ち帰りの課題になってしまったのは、申し訳ないです。

  

哲学エッセイというアイデアは、直接には東洋大学付属京北中学高等学校の「哲学エッセーコンテスト」や開智日本橋学園中学校や開智中学・高等学校の授業内で行われている小論課題からいただいている。それ以外にも哲学サマーキャンプといった活動もある。

 

www.toyo.ac.jp

 

【報告】高校生のための哲学サマーキャンプ報告 〈前半〉 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

 

でもそこで行われているように時間をかけて、大々的にはできないので、恥ずかしいのだけれど、備忘録のためにブログに残しておこうと思う。

 

私の場合

私の場合は、今年度こんなかたちでやっている。

 

 

授業内の位置付け

授業の目標として示していた、授業の知識を踏まえて「自身で新たな問題を立てることができる」「自らの考えを論理的に、かつ、説得的に表現することができる。」の到達度の確認

 

テーマ

自分が真剣に考え、取り組めるものであれば、授業で扱ったものでもそうでないものでも構わない

 

字数

400~800字くらい?短くてもよい。

 

評価

ちゃんと書いて出していたらまずはOK

 

その他

以下の項目を書いたメモ用紙を渡してある。

 

■問いの候補 

■問いに対する考え 「〜だ」「〜だと思う」

■そう考える理由 「なぜかと言うと〜…」「というのは〜」 

■自分の経験談、具体例、証拠「こんなことがあった。…」「たとえば〜」「例を挙げると〜」

■自分の考えとは異なる意見の可能性「しかし、こうも考えられる…」

■問いや自分の考えを細かく分類してみる「第一に、….。第二に、」

         「AはA’とA’’という二つに分けられそうだ。つまり、…」

■仮説を立ててみる 「もし〜ならどうだろう。」「もし〜でないならば、〜なるだろう。」

 

これらの項目は全部満たさなきゃいけないわけじゃなくて、あくまで補助だとは伝えてある。

 

 

ほかにも、上述の京北中学・高等学校の哲学エッセーコンテストの入賞作品の問いや作品を少し見せたりもした。それでも全体の概要説明は10分くらいしかしていない、雑なものだ。 

 

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時間ももっともっととってあげなければいけないし、じっくりよいものにするためにはエッセイを書くということ、問いを立てるということ、などについても共に考えたり、共同推敲をしたり、と、やるべきことは備忘録のためにもこんな感じで。

 

それでも、現時点で書いてくれているものを見ても、面白いし、1年間、様々な問題に対し問いを立てて一緒に考えることを提案してきた身としては、嬉しい内容も多い。別にこの授業によってみなさんの力を伸ばしたなんて微塵も思わないけれど、問いと考えを一つのセットにして文章を書いてみようという意図がしっかり伝わっていることで、まずは十分だと思えてしまう。

 

教員が同じ作業をするということ

唐突だけれど、あすこまさんのブログの話。リーディングワークショップ、ライティングワークショップのことをときどき拝見するなかで、特に印象に残っているのは、生徒に活動をしてもらっているあいだは、教員もなるべく同じことを真剣にするのだ、という点だったりする。それを見て、いつもとても深く反省をする。

  

askoma.info

 

たとえば、空手 

たとえば、自分は空手を街の道場で週に一度教える機会があるのだけれど、もう何年も、指導しているクラスで、道場生に指示した内容と同じメニューをその場で(こう書くと、クラス外で隠れて同じメニューを一人でやっているようにも見えるけれど、そんなこともない。)やり通したことはない。お手本として見せたり、部分的には加わって同じ動きをして、汗をかくけれど、全部同じことはやっていない。もちろんそれには合理的(と思われる)理由もあって、道場生の動きを細かく見て、アドバイスをしたり、時に叱咤するには、自分も同じようにメニューをこなしていたのではうまくいかない、のだ。そういえば一応の言い訳は立つ。けれど、自分も同じようにメニューをこなしてこそ、そのメニューの良し悪しやキツさ、適切なアドバイスが見えてくる、ということもある。

 

そもそもは、もう随分身体を動かしていないので、同じメニューを本気でやってみて、息が上がってしまうのが怖いのだ。だって先生だから。

 

こども哲学の場合も 

こども哲学の場合はどうか。こども哲学の場合は、よく、大人もこどもも、教員も生徒も共に問いに対する「共同探究者」になるのだ、という言い方をする。だから教壇の前という定位置から離れて、皆と同じように丸くなった椅子の一つに座る。*1

 

もちろん、教員は対話の場で生徒とは違ういくつかの役割があるとは思う。でも、それと同時に、生徒たちと同じ共同探究者であろうとする。ここには結構難しいバランスもあるし、教員は生徒と同じようにしているつもりでも、「先生の言ったことだから」その意見が強く取り上げられたりしてしまう。それが、「ちゃんとした根拠だから」ならいいのに。

 

 それに、空手の場合とも似ている問題もあると思っている。共同探究者っぽく振る舞ってはいても、実のところ、自分の全部を見せるような発言ではなく、教員として一歩引いてみたり、もともともっている知識の範囲内で発言してしまったり、する。全部本気で参加して、変な発言をしたり、のめり込み過ぎてしまったり、うまく発言がまとまらなかったり、すごく反発されたりするのは恥ずかしい。だって先生だから。

 

でも、そんな気持ちも湧きながらも、先生の先生っぽさは、そんなところじゃないはずだと思い、一生懸命考えて、対話に参加する。

 

だから自分も哲学エッセイを書く 

そういうわけで授業でエッセイを書く時間をとっている最中に自分も書いてみることにした。とはいっても、いわゆる机間巡視をしたり、いくつかの簡単な仕事をしたりしながら、やっていたし、結局2、3クラスの作業時間をかけて書いているので、授業時間内では書き終わっていない。(ちなみに、パソコンで打ち込むことについては、訴えを認めて、手書きでもよいし、パソコンで作成したものを印刷して提出してもよいことにした。)それに、クオリティもよくわからないけれど、なんとなく最近気になっていることについて、みなさんが書くであろう字数と同じくらいで書いてみた。尻切れとんぼになっているけど許してください。

 

運や運命をどう受け止めたら良いか。 

  私にとって、私がどのような顔で、どのような時代に、どのような国のどのような家庭に生まれるか、は「どうしようもない」ことだ。この「どうしようもなさ」を私は、運や運命と呼んでいると気がする。嬉しいことでも哀しいことでも、自分の力ではどうしようもない「それ」をどう受け止めたらいいのだろう。

  今、運と運命を並べて書いたが、この二つは大きく意味の異なるものと考えたほうが良さそうだ。運を言い換えてみれば、偶然。運命を言い換えてみれば、必然。この二つの違いは、自分の力ではどうしようもないけれど、結果にはなんらかの理由があったのだ、と考えられるかどうか、に結びつく。たとえば、私がある日雪道で滑って転んだとしよう。それを運と呼ぶならば、単なる偶然であって、そこにはなんの理由も意味もない。しかし私があの日あの時あの場所で転んだことを運命と呼ぶならば見えてくる状況は一変する。私が転んだという出来事には、なんか深遠な理由のある必然的な出来事だという気がしてくる。もう少し言うと、この違いは、「神」のような存在を念頭におくかどうかという点とも関係してくるかもしれない。

 これらの区別を踏まえても、問いに対し結局は「甘んじて受け入れる」と答えるしかない。だってそれ以上気にしてもしょうがないいし、結果は変わらない。それに運や運命やこちらでは予知すらできないから事前に回避することもできないからだ。それでも、どうしようもないことを運と捉えるか、運命と捉えるかによって、その出来事が受け入れがいがあるものとして自分に見えてくるかどうかは、大きく変わる。雪道で転んだとき、それを「ああ、運が悪かったな、ついていないな」と運のこと(ラッキー!/アンラッキー!)として考えるのは、受け入れるしかないけれど、どうにも受け入れがいがない。けれど、「私が転んだのは、それまでに私が行ってきたことに対するなんらかの報いなのだ」と運命のことがら(オーマイゴッド!)として考えれば、それには大きな意味があるような気がして、受け入れがいがある。

  そう考えると、自分のなかにもなにか特定の信仰に結びつくかどうかはわからないにしても、自分にとってどうしようもない事が起きたときに、それを受け止めがいのあるものとしていること、だから「神」のような存在を思い浮かべてしまっていることに気がつく。そしてその存在を思い浮かべてしまっていること自体も自分にとってほとんど「どうしようもない」ことだ、ということにも気がついた。

 それなりに頑張って書いたけど、特にワクワクするものではなくて、ガッカリしている。

私だってこんなくらいしか書けないけど、一緒に書きながら上手になっていきたいです。

 

 

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この前の雪の日に妻と作った雪ねこダルマ。 

 

 

 

*1:でも油断すると座っている位置がいつも黒板を背にするような正面になってしまう

カヌレで考える7つの質問あるいは哲学者の道具箱

7つの質問の使い方

昨日は某NPOとしてのファシリテーター交流会に行ってこどもの哲学で言われる「7つの質問」について考える機会があった。

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7つの質問とは「哲学者の道具箱」などと呼ばれたりする、対話を促進してくれる質問の型のようなもの。 

p4c-japan.com

英語ではgood thinker's toolkit。ハワイでのこども哲学=p4c hawaiiのジャクソンさんたちが7つの型に落とし込んだものだ。それぞれのワードの頭文字をとってWRAITECと呼ばれたりしているらしい。実践のときに、紙にそれを大きく書いたものを明示しておいたり、参加者ひとりひとりが質問を書いた小さな紙をもっておいて、それを意識してお互いに対話をしたりする。

なんでハワイの実践で道具箱が作られたんだろう

ハワイの実践というと、知的に安全なコミュティという理念を掲げていることはすでに知られているはずで、リップマンさんがそもそも主張したような批判的思考力教育としてのこども哲学、というよりはケア的な色彩が強いようにも見える。「7つの質問」と言われるものを、問いについての哲学的な探究を深めてくれるもの、こどもたちのおしゃべりを哲学的な議論へと高めるためのもの、だと考えると、ハワイでこの手法が整理されたのは少し意外な感じもしてくる。

でも、同時に、おとなととこどもが一緒になって共同探究をするんだ!という想いは随所に感じられる。みんなで丁寧に探究をしていくために、知的に安全なコミュニティが必要であるのと同じように、7つの質問を「哲学者の道具箱」として整えることは大事なことなのだ。哲学の勉強をしてきた大人だけが知っているものにしておくのではなくて、子どもたちにもわかる仕方で共有して、みんな一緒に探究していくこと。

 

カヌレで言うと?
  • そもそもカヌレっておいしいのかな?
  • もしカヌレがおいしいなら、もっと人気が出ているんじゃない?
  • 本当にあなたはカヌレ好きなの?(そういうふりをしているだけじゃないの?)
  • カヌレがおいしい証拠はある?たとえば?
  • でもカヌレにだって美味しくないものもあるんじゃない?

こういう感じで使います。

 

macaro-ni.jp

 

哲学者の道具箱 good thinker's toolkit

今回改めて取り上げてみて、いろいろ考えるところとか、そもそもよくわかっていないところもあったので、いい機会だし、少しまとめてみよう。

ジャクソンたちp4c hawaiiによる説明が以下のリンク。

http://p4chawaii.org/wp-content/uploads/PI-Good-Thinker’s-Tool-Kit-2.0.pdf

それをあくまで私訳かつ抄訳のクオリティだけれど、訳してまとめてみようと思う。

1. どういう意味?W:What do you mean?

明確さclarityを追い求めること。

"W"は本質的には、意味の複雑さ、あいまいさ、多様さに対する敏感さにかかわる思考の側面を捉えることだ。"W"の質問は質問を明確にしているのだ。

  • きみは...によってなにを意味しているの? 
  • このお話を書いた人はなにを意味しているんだろう?
  • それってどういうこと?
  • ぼくが聞きそびれていることはなんだろう?
  • ほかに知っておく必要があるのはどういうことだろう?
2. 理由 R: Reasons

なぜWhyについて考えること。

"R"が反映しているのは、哲学的に考える人にとっては、単純に意見を述べるのでは十分ではないのだ、ということ。意見は理由によって支えられるの必要がある。その理由は別の理由よりもよい理由だろうか。なぜ、を知りたいと思うときに、私たちは理由についての質問を尋ねるのだ。

  • その主張を支えるための理由はあるかな?
  • ...の理由にはなにがある?
  • 理由の一つには...があるよ。
3. 前提 A: Assumptions

私たちが当たり前だと思っていることを知ること、それを明らかにすること。

 "A"は哲学的に考えることの重要な要素には、議論や立場、論証や主張の根底にある前提を意識するようになること、そして、それを明らかにすることがあることを認めている。前提をはっきりさせて、いかにしてそういった前提が、私たちが探しているものや判断していることに影響を与えているのかを理解しよう、そしてありうる他の前提についても明らかにしていこう。

  • ...だ、と考えるassumeのは合理的なことかな?
  • 重要な前提に気づけたり、明らかにしている?
  • この論証や主張に含まれている前提っていうのは...だよ。
  • お話を考えた人が考えているassumeのは...なんじゃないかな。
4. 含意 I: Inference

もし〜なら...だ if-then、と考えること

"I"は、もし〜ならば...だ、つまり推論inferenceと含意inplicationを示している。たとえば、もし、ある一連の行為を行ったり、行わなかったりしたとしたら、なにが後から起きるだろうか。どんな結果があるだろうか。推論は、出発点(なにか見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、触れたり)でもあり、終着点(心が動いていく は出発地点で与えられていたことを超えているのだ。)でもある。ある人が顔をしかめているのを見る(出発点)で悲しんでいるんだ、と推論するかもしれない(終着点)。

  • ...から...だと推測するのは合理的かな?
  • もし...なら...と推測するのは合理的かな?
  • ...からすると...だと思うな。
5. 真偽 True

真であること、また私たちが真であると思っていることの含意impricationについて考えること

"T"は、実際に真であると主張されているものに関係している。どうやったら私たちにはそれがわかるのだろう?私たちが真であるとみなしているものはなんらかの基準に即しているのでなければならないだろうか?そういった基準とはなんだろうか?どうやったら真であるものを評価できるだろうか?なにかが真であるかどうかを確信できない場合であれ、私たちがもしそれが真であったらその含意とはなんだろうか、と想像してみることができるだろうか?

  • 今言われていることって本当true?もしそれが本当ならどういうことになる?
  • もし...が本当なら、それはなにを言っていることになるんだろう?
  • もし...が本当なら、それは...と言っていることになるかな?
  • ...が本当であるときには、...を含意するんだ。
6. 例示 E:Example/ Evidence

その主張が真であると証明するための証拠evidenceを示すこと。

 "E"は、ある立場や主張の明確化が達成されうるための一つの方法である。一般的な主張を特殊なものにしたり、例を提示することよって主張を吟味したりするための方法である。同じくらい重要なのは、主張を支持するための証拠の提示だ。証拠とはなにか。証拠は、あなたが身を置いている分野disciplineによって異なるようにも見える。証拠は科学の場合はどんなものだろう。。社会研究は?数学は?言語学は?

  • ...の例はなにかな?
  • その主張を支持したり、示したりするための例はあるかな。証拠はあるかな。
  • ...は...の例だよ。
7. 一般化 C: Counter-example 

その主張が真ではないことを証明するために反証counter-evidenceを示すこと

"C"はそれが間違いであると証明したり、少なくとも主張の限界を吟味するための道を探すことによって、主張や立場の限界を吟味するという重要な課題を反映している。

  • ...への反例はあるかな?
  • 今なされている主張への反例はなにかあるかな?
  • ...は...への反例だよ。

 

 

なんのための道具箱なのか

うーん、もっと小慣れた日本語にしたいのに、できない。力不足です、ごめんなさい。

でも、こうやって訳そうと読んでみて、いろいろ疑問に思うこともでてきた。昨日の交流会で出た話題と合わせて少しだけ書いておこう。

 

そもそも「質問」ではない、など考えてみる必要のあること

NPOではこの道具箱を「7つの質問」としていつのまにか紹介していると、元ネタは必ずしも質問ではなかった。みんなで共同で探究を進めていくときに、それを助けてくれるもの、だ。私(たち)は、質問という要素を勝手に強く読みすぎているという可能性もありそう。

ほかにも、1のWを、「どういう意味?」というように意味についての質問と言いがちだけど、実はそれは「明確さを求めること」なのだ。そもそも相手の言いたいことにある複雑さ、あいまいさを取り除いていこうとするためのもの。カヌレについての話題になったときに、いまいちカヌレってなんのことだかわからないままでは、一緒に探求をしていきたいから、「カヌレってなに?」って聞いてみる。だからmeanのMじゃなくてWと言われている(のだと思う)。

ほかにもほかにも、6の例示:Eはexampleとevidenceの二つの英語が当てられている。例示と証拠って重なるときもあるけれど、重ならないときもあるし、実はそこは取り違えちゃいけない大事なところだったりする。

カヌレが美味しいだって!?たとえば?

カヌレが美味しいだって!?証拠を見せて! 

 この場合は、どちらも美味しいカヌレにありつけそうだけれど、聞かれていることや答えなきゃいけないことは常に重なるとは限らなそう。

あとは、7の場合も日本語のものを参考にして*1「一般化」と訳したけれど、そもそもの英語を訳すなら「反例」だ。一般化と反例がどういう関係にあるのかも、おもしろいところ。

それに、そもそも7つでなくちゃいけないのか、哲学的探究にとって、この7つがどう貢献しているのか、だって、本当のところはっきりしているわけじゃない。ハワイの人たちが使っていて、確かになんとなく良さそうだから使っているといえば使っているだけかもしれない。

こんなことは考えてみる必要がある。

 

7つの質問を使った質問ぜめは哲学対話なのか

交流会では、 私に対して他の方達が7つの質問を使ってたくさん質問をしてみよう、というかたちで練習をしてみた。そのなかで、ある方かたからは、「おがわがその問いを考えたい背景みたいなものを掘り下げるだけになっていて、哲学対話っぽくはなくなってきていないか」という話があった。それに反論する人もいた。

だれかの言わんとしたことに対して、7つの質問を使って、ぐぐっと掘り下げていく、こと、は哲学対話なのか。哲学対話にとって、どういう意味をもつのか。

その場でも確認されたことではあるけれど、少なくともWやRは大事だ。そもそもの問いやだれかの意見の意味内容が明確にならないとちゃんと考えられないし、なんでそういう意見を言ったのかの理由もわからないとそこから先に進めない。そういう意味ではWとRくらいは進行役を中心に常にみんなが意識しておきたい。

 

こどもたちにすぐに使えるものなのか

こども、と言っても いろいろな年代があるのだけれど、特に未就学〜小学生くらいまでで、初めて哲学対話をする場合に、この7つの質問を提示したりはしないでしょう。こどもたちは、問いが与えられたら、まずは自分の考えや知っていることを言いたい、気持ちでいっぱいになる。最初のうちはその気持ちをしっかりと大切にしてあげたい。

でも同じメンバーでなんども対話の場を設けているのに、毎回それぞれ言いたいこと言いっぱなして終わるのは、やっぱり寂しい。問いに対して、みんなでゆっくりとでよいので前進していきたい。哲学的に考える人として進んでいきたい。そんなときは、きっと助けになる。

だから、あなたが場を開く側だとしたら、こどもたちとどんな場を作りたいか、によってこの道具箱も使うか使わないか、どう使うかを考えていくことになるはずだ。

 

こどもの哲学(哲学対話)とはなんのためにやるものなのか

どこから入っても、結局はこの問題に帰ってくる気がする。つらい。

「こどもたちといろんな意見を交換しあうんだ!」
「仲良くなるんだ!」
「コミュニケーションを円滑にするんだ!」
「思考力!思考力!」
「聴く力!」
「道徳教育!」

 いろいろある、それぞれの目的にあって、適切なやり方を道具として採用していけばいい。

ただ、目的がなんであるかにせよ、おそらく「こどもの哲学」や「哲学対話」と名のつく実践の多くでは、「テーマや問いがあって、それに対して意見を述べ合う」という中身を持っていると思う。言うなれば「共同探究」。もちろんそれをガツガツやるのか、ゆっくりやるのか、は違うだろうけれど、共同探究を繰り返し進めていれば、哲学者の道具箱が役に立つ場面が必ずやってくる。

 

くりかえしになるけれど、「7つの質問」や「哲学者の道具箱」というと、哲学的な議論をごりごりやりたい人たちのためのもので、こどもと素朴に対話をしたい、みたいな人にとってはあまり使えないものなのでは?という感じも覚えるかもしれないけれど、きっとそうじゃない。お互いに共同探究をしていこうとするときには、自分を、相手を、その場を大切にする(ケアする)ためにこそ、こういった道具の力を借りる必要があるときもある。だからケア的な対話のための7つの質問、哲学者の道具箱、という観点をもっと押し出してもよいのだろう。

楽しみな本

こんなことを考えていたら、新しい本の出版話が入ってきた。

www.amazon.co.jp

こどもの哲学は、思考や議論の訓練ではなく、ケア的な哲学対話である。自分で表現することを学び、他人と語り合い、ともに考えるという経験から、自己や他者についての信頼、言葉やコミュニティへの信頼を育み、困難や挫折を他人とともに乗り越える力をつける。*2

 

前回のブログでも取り上げた土屋陽介さんの博論での立場、知的徳の教育としてのこどもの哲学、とどう重なるのか、あるいはぶつかるのか。

 

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

そのうえで、今回の観点でいれば、「哲学者の道具箱」というごりごりの哲学っぽいものは結局なんであるのか、こういうことも一緒に考えてみたい。

 

 

 

 

 

カヌレの話をもっと織り交ぜたかったのですが、全然うまくできませんでした。

ということで暫定版。 

 

*1:河野哲也『「こども哲学」で対話力と思考力を育てる (河出ブックス) 』河出書房新社、2014年。

*2:http://comingbook.honzuki.jp/?detail=9784872595802