人はどのようにして仕事をするのか。それはいつ哲学になるのか。についてのミーティング。時間がなくて言えなかったけど、この話題を聞いて自分について思ったのは、今、哲学対話を実践している二校ではなくて、ただの非常勤講師としている学校でこそ、哲学の人として存在している気持ちになること。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2017年9月29日
自分の生活のなかに哲学はあるか、そしてそれはいつ哲学になるのか
昨日とあるミーティングで、こういった問題提起をいただいた。そこでは別の筋の話が展開されたので、考えていたけど言えなかったことを書く。
ふだんから哲学を研究していたり、哲学プラクティスと呼ばれるものに関わっている人は、自分自身の生活や仕事のなかでいつ哲学しているのか。そう問われるとハッとする。(「哲学はあるか」という問い方よりも「いつ哲学になるのか」のほうがしっくりくるなあ。)
自分の場合、今年はありがたいことに、定期的にかかわっている3つの学校のうち2つでは日々哲学対話を授業で行なっているので、そこでは哲学をしているはず。。。なのに、むしろ自分の仕事が哲学になっているかもと思ったのは、哲学対話などやらずに倫理や現代社会といった授業を主に講義形式で行なっている学校のほうだった。
もちろん、哲学対話の授業では、自分も単なる交通整理のファシリテーターというだけでなくて、一緒に考えて思ったことは率直に語るようにしたいし、なるべくそうしているつもり。なので、そこでは自分のやっていることは哲学になっていてほしい。
一方で、授業内容ややり方自体は、必ずしも哲学プラクティスしている、というものではないのに、哲学している感じがする、というか、その学校に哲学の人としている感じがするのだ。
ここで話題とは無関係なキレイな写真どーん!
気仙沼港 内湾 ©平田 智幸 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)*1
哲学の人としてそこにいる感じ
その学校でだって本当はただの新米ペーペーで、授業はもっと改善しなくちゃいけないのだけど、年度のはじめから緊張しながら、でも肩の力を抜いて教室に行こうとしている。多分、生徒たちからはだいぶ変わった教員に見えていると思う。夏休み前後くらいから、教科の内容にかかわる質問以外にも、ゆるい雑談をしてくれる人がいたり、ちょっとした悩みを話してくれる人がいたり、進路相談をしてくれる人がでてきた。授業でもこちらは単調な講義をしようと思って行った教室で、思いがけずゆるやかな議論が起きることもあった。
なんというか、その学校に、非常勤講師として*2、(授業に悩み、仕事に悩み、もんもんとしているような)今自分がいる立ち位置は、哲学している人っぽい感じがする。別に私を見ている生徒たちが私と「哲学の人」と認めているというわけじゃなくて、ただの、ぽさだけど。
哲学をやってきて、今もんもんとしながら仕事をしている自分がそこにいる意味を実は哲学プラクティスを授業で公認されていない学校ほど感じる、というくらいの意味だ。*3
その意味では、先日のこのツイートも今の話と関係している気がしてくる。
哲学対話や哲学プラクティスをやる人として学校に迎えられていないときに、そのなかで自分のできることをしていくこと。そのほうが逆説的に、哲学の人っぽくそこにいることになる、のだろうか。
哲学対話を学校でやる話を教員の前ですると、よく出会う反応が「確かにすばらしいけど、うちではできないなあ」というものだったりする。そんなとき、ああ教員はなかなか変化を好まないんだなあとか、ビビってんなあ、とか生徒のこともっと信頼して託せばいいのに、と心の中で思っていた。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2017年9月25日
そして、学校の方針とは関係なしに、自分の授業のなかで時間を見つけ、生徒たちからは不思議がられながらも、机を外し円を作り対話の場を開いている、そんな身近な先輩教員たちを改めて深く尊敬する。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2017年9月25日
自分の言葉で率直に語るみたいなことが関係しているのかもしれない
ここでやっぱり、じゃあそのときの哲学している人っぽさはなぜ感じられるのか、という問題になるだろう。
今の時点で思うのは、授業内外で、自分の言葉で率直に語ったり、振舞ったりできている気がすることと、関係していそうだということくらい。やっぱり思った以上に、教室で教壇の側に立つと、自分の言葉で率直に語る、とか肩の力を抜くって難しい。というかそもそもそんなこと求められてない。
でもついついなるべく教員ぽくなく、「教壇の側」にいようとする。難しいけど。
念頭に置いている非常勤先では、相手が受験を控えた高校三年生なのだけれど、彼らはもう学校や教員というものをたくさん見てきているし、4月の時点で、ああこの人たちならある程度正直に思ったことをいっても、ちゃんとわかってくれるんじゃないかなと思えた。だから「教員だからこういうことを言わなきゃ」とか「授業を成立させるためにどうふるまうべきか」みたいなことを考えずに、話せている。*4
そういう意味では、哲学対話は授業でできている学校でも、14,15,16歳の世代の人たちのあつまる教室に入るほうが、ある意味で気を使うし、緊張もしているのだと思う。ほんとうはそういう風にこっちが緊張したり、教員としてどうすべきか、みたいな視点を外せたときに、哲学の人になれる、ということなのかな。
そんなふうに、ある問いをきっかけに、夏休み明けで授業が始まり、またバタバタと当日の朝まで授業準備をする生活に突入した矢先に、日々の生活を反省してみるのでした。