ブログを書こう書こうと思っていたけど書けていなかった。
今日書くのは、日々書きたいなあと思っていたのとは別の話。
最近もいろんな学校で授業をしているのだけれど、二つの学校では哲学対話を多くしている。これが基本的には自分の本業、というか持ち味だ。だから一番楽しいし、充実しているし、いい授業ができている、かというとそういうわけでもない。やっぱり学校の教室で哲学対話をするのは難しい。*1
そもそもみんな哲学対話をやりたくて集まってるわけじゃない。
(そりゃそうだ。)
40人いるクラスで全体の輪っかでやると参加しない=考えようとしない人がいる。
(そりゃそうだ。)
対話が終わって休み時間に入ったらすぐにもう別のことに気が向いている。余韻がない。
(そりゃそうだ。)
今日のクラスも難しかった。
その前の授業での哲学対話は、一つのクラスが大変ハードだった。絵本を読んで、親の言うことはどこまで正しいのか、という問いに決まったとこまでは、順調だったのだけど、そこからちょっとしたことをきっかけにあれよあれよというまに、クラス内で協調性を乱す奴は悪いのかみたいな話題へ。
— おがぢ (@ogadi_ogadi) 2017年6月21日
対話のなかでは普段の関係性を背景に攻撃的な発言も飛び出した。
直前に勉強したばかりだったのに、「人格攻撃」も飛び出した。
哲学対話で起きる人格攻撃ってたとえばこんな感じ。*2
ルール、ルールって言ってますけど、〇〇さんこそみんなでやらなきゃいけない話し合いのとき、話聞いてなくて注意されていたじゃないですか。だから〇〇さんの話は説得力がないと思います。
こういう発言はだめだ。これが実際は攻撃的な雰囲気で、複数なされたりするわけだからそうなったらもう対等な議論どころではないだろう。
でも、私が指摘する前に、学生のなかから 「今のは人格攻撃だと思います!」と言いづらいことをちゃんと言ってくれた人もいた。クラス内でなぜルールを守るべきかといったことについて、個人攻撃を超えてちゃんと考えようとする人もいた。
だから今日は、このままの話題で続けます、と宣言して時間まで話し合ってもらった。
最後までこれで良かったと思えるような確信はなかったし、授業後のコメントシートにも、今後の人間関係に影響が出る話題をなぜ授業でやるのかわからない、よくない、と書いてきた人もいた。*3
こういう授業は多くの教員は評価しないだろうし、哲学対話を授業でやる人のなかでもいろんな意見があるだろう。
でもなあ、普通の授業やHRではあえて触れないような話題にさしかかったときに、それを哲学対話の場面でも避けていたら、なんで哲学対話やってんだろ、とも思ってしまう。
もちろん、哲学するためなので、クラスや学校の問題を取り上げるためじゃないのかもしれないけど、真摯に哲学することは、問題を安易に回避しないことを含むと思うのだ。それを通して問題は解決しないことのほうが多いし、問題は露わになるだけで、授業後の人間関係はより気まずくなるかもしれない。哲学対話以外の多くの普通の学校の時間を生きている生徒や学生にとっては、問題だけ残して去っていく哲学対話の教員は悪魔のように映るかもしれない。
今回のようなシーンで哲学対話の教員にできるのは、過度の人格攻撃から生徒や学生を守ることに気をつけながら、それぞれが主張していようとしていることの内容と根拠に集中することだ。生徒たちが熱くなればなるほど、自分はそこで考えなくてはならないのだった。今日、それができていたかな。*4
こういうテーマで対話を続けることにしたこと自体は後悔していないけれど、自分がファシリテーターとして彼らの議論のところをしっかりと繋いであげられていれば、もっと違った展開があったのかもしれない。ああ。
そして、自分が来年度以降、どこかの専任教員になったときに、自分の学校や担任をもつクラスで同じことが起きたときに、どうするだろうか。ああ。