窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

じょじょに「先生」になっていっている自分がいやだ

いやー、新年度始まると全然ブログにまでたどり着かない。書きたいことは色々あるのに。

 

でもちょっとがんばって、この一ヶ月半くらい過ごしていて、感じていることを記録しておく。

 

 

●専門学校で授業したよ

去年に引き続き、四月は某専門学校で授業をさせてもらう機会があった。

専門外のことにも関わらず、一生懸命聞いて、考えて、参加してくれるのでとても楽しい。

今年は、去年とは3つ大きく変更した。

 

①哲学対話の量を増やすこと。

②勉強したことを使ってグループで即興劇を作る授業を入れたこと。

③レポートの課題を変えたこと。

 

①は去年もやったのだけど、今年は学生さんたちのほうがもっとやりたい!と言ってくれたので回数を増やしてみた。哲学的な深い内容になるかどうか、といった地点ではなくて、とにかく普段は専門の勉強や実習の準備で忙しくてクラスメイトともゆっくり話せないなかで、お互いの価値観を交換できる、というだけで、とても貴重に思ってくれているようだった。

 

 

 

②は、勉強した論理学やクリシンの技法を使って、高価な売りつけたり、高額の現金をむしりとったり、意中の人に自分のことを好きだと言わせたりするような会話文を作ってみて、グループで劇にして発表、という授業である。直前になって、このクラスでならこんなチャレンジもしてみたい!と思って、見切り発車でやってみた。丁寧に見れば、きっと色々な改善点はあったのだろうけれど、みんなで笑いながらこれに取り組めたのは僕にとってもとても貴重な体験だった。

すごいなと思ったのは、5、6人のチームだったので、劇は必ずしも全員でなくてもいいよー、と言っていたのに、全グループで全員が劇になんらか関わるようにしていたこと。ちゃんとしてる。

③レポートは、授業で勉強した論理学やクリシンの技法から一つ好きなものを選んで、それをA: 小学生に伝わるような文体で説明する、B: 二人以上の会話のやりとりを通してそれが説明されるような文章を書く、C: 文体は普通でいいけど、必ず自分の専門の場面の具体例を入れる、という書き方についての注文をつけてみた*1。まだ実は丁寧に採点していないのだけど、みなさん創意工夫してこの難題にチャレンジしてくれたことは一読してわかる。疲れつつあったときに、読んだので、とても元気をもらったのでした。他の学校でもチャンスがあれば取り入れてみたい。

 

 

●高校生に授業してるよ

高校生に授業してるよ。

なんで自分がこんな考え方をするようになったのかもうよくわからないのだけど、なるべく先生っぽくいたくない、と思っていて、結構変な感じで、ゆるい感じで、関わっている。授業最初の礼をしたあと、「あー!授業やりたくないぞ!」って言って肩をぐるぐる回して、「さあ、授業やるぞ!」って言ってから始めたりしてる。

授業プリントとかも作ってる。プリントに穴も開けてる。「今、ここで」*2をやってみたりもしてる。中間テストに頭悩ませたりもしてる。

 

で、反省もしている。  

 

 

 

ちょっと落ち込んだりもしている。 

 

 

 

基本的に私が雑談も交えつつだけどプリントで講義をしているほうのクラスのほうが好意的な評価が多くて、サイレントダイアログとかやったり生徒どうして教えあいしてもらったりしてワークが多いクラスのほうに厳しめのコメントが混じっている感じ。

でもそりゃそうか。先生は自分たちが作業するのみてるだけだし、作業させられてるこっちはだるいし、お前が先生なんだからお前が喋れよ、って思うよね。そうだよね。ごめんなさい。でも喋りたくないんです、実は。それに「授業だから、先生だからみんなの前で喋る」って別に絶対的なことじゃないよね、って言いたいのです。でもこのことをわかってもらうには、しっかりと私のやりたいことを伝えたり、あるいは活動の中身が意義深いものじゃないとダメですよね、すみません。

 

高専生にも授業してるよ

 ありがたいことに高専でも授業をしてます。ここでは哲学対話をたくさんやってる。

みんなで安心して、自由に、じっくり考えるためにはどうしたらいいか、を、私一人じゃなくてクラスごとに学生さんたちと考えることをやりたい。だから対話のルールを提案してもらったりもするし、実際に彼らが良いと思うやり方でもやってみたい。

 

 

 

ちょこちょこ哲学の授業もしてる。下手くそなソクラテスの解説をしたあとに出た質問。難しい。でもすごい。無知の知による探究の態度は、実はソフィストさんのような知ったかぶりの知者の存在を必要条件とするのではないか、という質問のはず。誰かが暫定的にせよなんらかの知を提示してくれて、それを疑うことで、哲学は始まるのではないか。みんながみんな、よくわからんなあ、よくわからんな、そのことを自覚しようなあ、と言っていても何も起きないんじゃないか。ということ。どうなんだろ。難しい。

 

でも、みんな素朴に思ったことを発言したり考えたりできる環境があると講義っぽい授業も楽しいこともある。 

 

高専では「大福帳」*3使ってみている。 コメントをマメに返すということはできないけれど、二回に一回くらい書いてもらうことで、あちらの感じ方や感想が知れるのは良い。

 

 じょじょに「先生」になっていっている自分がいやだ

それでも、こんな感じでのらりくらりやっていても、じょじょに「先生」になっていっている自分がいやな感じがする。でもなんでそんなに「先生」になりたくないのだろう。やっぱりこども哲学することと、「先生」になることは違うことなんだろうか。

この前も、某先生と一緒に哲学対話の授業に入ったとき、私が喋っても生徒はそんなに一瞬で静かにならないけど、某先生が喋り出すと生徒は黙るのだ。やっぱり「先生の声」ってあるよね。僕はそれがまだうまく出せないときがあるし、意識的にそういう声を出さないようにしてるところもあるけど、こんな抵抗運動に意味はあるのだろうか。

 

●論文が出たよ

昨年度の終わりにまとめていた「子どもの哲学」関係の論文が二本、新年度になって刊行されたのだけど、一本はWeb上で読めます*4

 

小川泰治「「子どもの哲学」における知的安全性と真理の探究 何を言ってもよい場はいかにして可能か」、『現代生命哲学研究』第 6 号 (2017 年 3 月):62-78。

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201705.pdf

 

新年度になってからは研究は絶賛ストップしていて、当面は再開される見込みはないのだけど、授業しながら考えたこととかは、このブログとかに時々でも書きとめていきたいものだ。

 

そんなこんなで結構あっぷあっぷで生活してます。

ちゃんと休むべきところは休み、断るべき仕事やお誘いは断り、いきたい。

でもまだまだ土日に授業準備をせざるをえない。要領が悪い。

 

某先輩の

 

ともかく、おそらくここ数年間でなすべきもっとも重要なことは、結婚生活を穏やかに軌道にのせること、です!

 

という言葉を胸に生きていこう。

*1:レポート課題については、学生を思考にいざなうレポート課題を読んで勉強中です。

*2:妻がもうこの実践をずっとやっているのでアドバイスをもらいながら。この授業実践の記録は

私の目は死んでない!―高校生通信『今、ここで』の10年間の記録 に。

*3:すべての授業で大福帳を使おう | KogoLab ここからテンプレートをダンロードしてる。ありがとうございます。

*4:もう一本は抜き刷りがあるので欲しい方がいらしたらお渡しします。

あなたの不満はなんですか?から哲学は始まるのか

 
ねりま子どもてつがく第四回に行ってきた

「どうしてママは私の髪の毛をとかすときに痛くするの?」

 

「どうしてお風呂に毎日入らなくちゃいけないの?」

 

「どうして嫌な注射を打たなくちゃいけないの?」

 

「なんでゲームの時間を大人が決めるの?」

 

「なんで学校の先生は廊下に立たせるの?」

 

「どうして忘れ物って、無くしたわけじゃなくて家にはあるのに、怒られるの?」

 

「どうして学年が上がると授業が6時間目まであるの?」

 

先日3月12日のねこてつ(ねりま子どもてつがく)@立野町では、ヨシタケシンスケさんの『ふまんがあります』を読んでから、子どもたちにもいろんな「ふまん」を挙げてもらった。*1上に挙げたのはそのなかの代表例だ。

 

www.ehonnavi.net

 

この日は、親子10組前後の参加者たちと2時間の子ども哲学。特に幼稚園年長と小学一二年生が7、8名と多かったのが特徴的だったけれど、大人からすると微笑ましいところもあるけれど、それぞれにとってはとても切実な「ふまん」を言ってくれた。

 

 

ちなみに、親からも不満を募ってみた。

 

(子どもが「なぜ怒られなきゃいけないの?」と言ったのに対して)

「なぜ怒らせるようなことをするの?

 

「なんで注意するときに理由を言っても、その理由をわかってくれないの?」

 

「なんで子どもばっかり遊ぶの?大人も遊びたいのに!」

 

「なんで子どもはすぐお腹が空いて、「今日の夕飯はなに?」って聞いてくるの?」

 

「なんで子どもは親には約束を守ってと言うのに、自分は約束をしても守ってくれないの?」

 

なかなかである。

  

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結局、その日の問いはこのような学校や家族への直接の不満ではなくて、

「一年生になったら友だち100人できるかな?」って歌があるけど、100人なんてできるわけない。そんな矛盾した歌がなぜあるのか?

になった。

でもそれはそれで、低学年チームは「友だちってどうやってなるの?」「会ったことがない人でも友だちになれる?」「大人と子どもは友だちになれる?」あたりのことを楽しく話せたし、高学年チームも「友だちってたくさんいた方がいいの?」「10年後・20年後も今の友だちと友だちなのかな?」などについて少人数でじっくり話せたみたいで、とてもよかった。それから親子一緒になってまた対話をして、時間になったので対話自体のふりかえりはしなかったけれど、ロスタイムにその日は選ばれなかった絵本『ともだちや』を希望者に読み聞かせして解散。

www.ehonnavi.net

その日全体の流れはこちらからどうぞ。

www.facebook.com

 

 
「あなたの不満はなんですか?」から哲学は始まるのか

以前、子どもたちの学校や親への「不満」を挙げてもらうところから始めて子ども哲学をすることについて、「不満」と「問い」は全く違うものだ!という意見を聞いたことがある。

もっともな意見であるように思う。

 

確かに、「なぜ?」「どうして?」という問いの形は同じでも、怒りや不満からくるルサンチマンと、知的な好奇心からくる探究心は違う。*2

でも、とも思う。

 

すぐに答えは出ないけど、でも切実に答えを求めてしまうようなそんな問いの求心力は、不満や怒りから出てくるなぜ?どうして?にもあるはずだ。そこに人が本気で考え始める種はやっぱりあるのではないか。*3

 

そんな意味では、今回この本で子ども哲学をしたことは、僕にとってはちょっとしたリベンジマッチとしての意味合いを持つことにもなった。勝ち負けは知らない。 

  

子どもたちに親や学校への不満を言わせてケラケラしている僕は「てつがくする」ことをゆがめたり、「てつがくする」ことから少しずつ離れていってしまっているんだろうか。 

そんな不安もあるけれど、でも自分や自分の周りの人たちと「考えるって楽しい!」と思える方向に進んでいこう。

 

個人的に嬉しかったこと、とか

・前回も参加してくれた小学一年生の男の子が、ルール説明用にホワイトボードに書いていた「ボールを持っている人が話す」という文字の「ボール」のところに線を引いて「コミュニティボール」と書き足してくれたこと。彼は使う絵本の名前もホワイトボードに書いてくれた。

 

・さらにその彼は周りでゴロゴロしていた4歳の妹に、「〇〇も考えてる!?ちゃんと考えるんだよ!」って言ってお兄ちゃんしていた。

 

・アイスブレイクとしてやってみた「私の年齢はなんでしょうゲーム」が楽しかったこと。*4

 

・別のところで知り合いになった某先生と地域でお子さん連れで再会できた。

 

***** 

最後に宣伝。

 

講座情報 | 古石場文化センター | 公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団

 

関わらせていただくようになって、三期目になりますが、江東区の文化センターで半期全6回の子ども哲学やります。地域を問わず参加できますが、事前の申し込みが必須で、基本的に6回続けての申し込みです。

特徴は最後の2回は親子参加の回があることです。親子会でまた『ふまんがあります』使ってみたいな。自分の子どもが講座でちゃんと話せてるかな?って様子を見にきた親たちに向かって、子どもたちにガンガン不満を言ってもらって泡吹かせたいよね。

*1:他に『うそ』『ともだちや』『くいしんぼうのあおむしくん』

*2:これは前回のブログで書いた「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」の区別に少し似ているかもしれない。

*3:もちろんそれが不満暴露合戦になったり、理由のない現状批判になったらだめだけど、そこは僕たちファシリテーターの出番だろう。

*4:やり方1) まずは私の年齢の予想を子どもたちに言ってもらう。「33!」「42!」「78!」2) 1人一回、「はい」か「いいえ」で答えられる質問をしてもいい。「35歳より上ですか?」「30歳ぐらいですか?」3) 大人があと1,2回質問をして、なるべく確定させるよう頑張る。「29歳ですか?」「これまでに答えは出てきましたか?」4)みんなで一斉に答えを言う。 この2)を数字を使っちゃだめとかにすればルールの難易度は上げられそう。「働いてますか?」「結婚してますか?」など

人は死んだらどこへ行くのか

子どもの哲学についての論文をあと数日で仕上げたいのだけれど、書けていない。

ピンチだ。物を書くリハビリも兼ねてブログを書いてみる。

 

***

「人は死んだらどこへ行くのか」
 

一瞬ドキッとなるこの問いは、小学生や中学生と哲学をするときにとてもよく彼らが出してくれる問いの代表例のようなものだ。今年も何度かこの問いが選ばれて対話をしてきた。

 

対話としては、人は死んだら終わり派と終わりじゃない派に大きく別れて、さらに終わりじゃない派のなかにも魂がある派、天国や地獄がある派、生まれ変わる派などがいる展開が多い。

 

子どもたちは死を扱うと言ってもしんみりしたり、「死ぬのが怖い!」という感じでもなく、むしろサバサバととても楽しそうに話している印象を受けるのだけど、もちろんそこで発言しない子もいるわけでその子たちの心情まで十分に汲めているわけではない。もしかしたら、この問いをクラスメイトが飄々と話している子たちを見て、

 

「いやいや、死なんてデリケートで恐ろしいテーマをこいつらなんでそんな楽しそうに議論してるんだよ!」

とか

「最近、おじいちゃんが死んじゃったばっかでこんな話したくもないし、聞きたくもないの!」

 

って思っている子がサークルの中にもいるかもしれないのだ。*1

 

死という極めて個人的な感覚や体験に基づいたテーマを扱うこと自体は十分に可能だと思うし、その場がその問いを選ぼうとするならまあどんどんやればいいと思うのだけれど、「死んだらどこへ行くの?」って問いの(哲学的な?)ポイントって、対話の中で積極的に発言している子よりも、実はその場では発言せずじっとしている子のほうにより(無意識のうちに)理解されている気もする。

 

僕自身も最近似たようなことを思った。

 

***

「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」
 

2月 16日に「てつがく」をカリキュラムに取り入れて2年目になるお茶の水女子大学附属小学校の教育実際指導研究会に行ってきた。そこで見てきたものもとても印象的で色々と書き留めておきたいこともあるのだけれど、今はそこでいただいた雑誌『児童教育』に森田伸子さんが書かれている論考から少しだけ上の話につながる話題があったので紹介したい。

 

森田さんはその中で犬養美智子*2さんという方が書かれたエッセイを出発点にして、哲学を二種類に分けようとしている。

犬養さんはこう仰ったそうだ。

 

昨今、教室で子どもが大勢で賑やかにおしゃべりをしている、子どもの哲学という授業があるが、ああいうものは哲学と言えるだろうか。*3

 

そして森田さんはこれを受けて「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」という区別を導入している。もちろんここでは後者が子どもの哲学の活動のことを指すことになる。森田さんとしては「1人でする哲学」をそれぞれがぶつかる人生の問題に立ち向かっていくような実存的なことと考えて、学校での「大勢でする哲学」は、そのような実存的な問題に対して1人で哲学することを「深いところから支えてくれる」ような「哲学する基礎体力」をつけるようなものだと考えている。

 

そしてそこから言われるのは、次のようなことだ。

 

みんなでする哲学では、あまり個人的なことに関わる問題はふさわしくないとリップマン*4は言っています。それは私も同感です。もちろん1人の問題をみんなの問題として考える場合もありますが、一人一人に固有の問題を、深く考えずに公共の場に引っ張り出して話し合うのは、デリケートな物を見過ごし、個人的な物をローラーで踏みならしてしまう危険性があります。対話が自由で楽しいものであるためには、テーマの選択は自由であり、かつより普遍的で一般的なものが望ましいように思います。*5

 

こういう言い方からすると、子どもの哲学で「死」がテーマに選ばれたとしても、それが個人的な話題に踏み込むことなく、比較的楽しい感じで対話が進んでいくというのは、むしろ望ましいことなのかもしれない。

 

でも、そんな簡単に割り切れないし、教室でみんなでする哲学がなんか本気で哲学することの練習っぽく捉えられちゃうのはなんか違う気がする。

でもでも、確かに教室での哲学は、死についての個人的な本気の問いを話す場にはそうそうはなり得ないだろう。

でもでもでも、教室で誰かの個人的な問題に思えることが開示されて、それをみんなで本気で哲学することができたらいいなあともやっぱり思ってしまうのだ。

 

サイゼで死を語る人たちもいるしね。

nagairei.hateblo.jp

 

*1:実際、ここらへんのことを気にして、死がテーマになりそうなときに「このテーマでやりたくない人いるかな?全員目をつぶって、やりたくない人は手をあげてください」などとやることがある。対話の場の安全性に関わる配慮として、だ。

*2:文面では美智子さんになっているけれど、多分、道子さんの間違い。

*3:『児童教育』(27), 2017, p. 21.

*4:「子どもの(ための)哲学」を1970年代にアメリカで始めた人。どの著作のどこで言っているのか、典拠が気になるところ

*5:『児童教育』(27), 2017, p. 22.