窓をあけておく

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あなたの不満はなんですか?から哲学は始まるのか

 
ねりま子どもてつがく第四回に行ってきた

「どうしてママは私の髪の毛をとかすときに痛くするの?」

 

「どうしてお風呂に毎日入らなくちゃいけないの?」

 

「どうして嫌な注射を打たなくちゃいけないの?」

 

「なんでゲームの時間を大人が決めるの?」

 

「なんで学校の先生は廊下に立たせるの?」

 

「どうして忘れ物って、無くしたわけじゃなくて家にはあるのに、怒られるの?」

 

「どうして学年が上がると授業が6時間目まであるの?」

 

先日3月12日のねこてつ(ねりま子どもてつがく)@立野町では、ヨシタケシンスケさんの『ふまんがあります』を読んでから、子どもたちにもいろんな「ふまん」を挙げてもらった。*1上に挙げたのはそのなかの代表例だ。

 

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この日は、親子10組前後の参加者たちと2時間の子ども哲学。特に幼稚園年長と小学一二年生が7、8名と多かったのが特徴的だったけれど、大人からすると微笑ましいところもあるけれど、それぞれにとってはとても切実な「ふまん」を言ってくれた。

 

 

ちなみに、親からも不満を募ってみた。

 

(子どもが「なぜ怒られなきゃいけないの?」と言ったのに対して)

「なぜ怒らせるようなことをするの?

 

「なんで注意するときに理由を言っても、その理由をわかってくれないの?」

 

「なんで子どもばっかり遊ぶの?大人も遊びたいのに!」

 

「なんで子どもはすぐお腹が空いて、「今日の夕飯はなに?」って聞いてくるの?」

 

「なんで子どもは親には約束を守ってと言うのに、自分は約束をしても守ってくれないの?」

 

なかなかである。

  

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結局、その日の問いはこのような学校や家族への直接の不満ではなくて、

「一年生になったら友だち100人できるかな?」って歌があるけど、100人なんてできるわけない。そんな矛盾した歌がなぜあるのか?

になった。

でもそれはそれで、低学年チームは「友だちってどうやってなるの?」「会ったことがない人でも友だちになれる?」「大人と子どもは友だちになれる?」あたりのことを楽しく話せたし、高学年チームも「友だちってたくさんいた方がいいの?」「10年後・20年後も今の友だちと友だちなのかな?」などについて少人数でじっくり話せたみたいで、とてもよかった。それから親子一緒になってまた対話をして、時間になったので対話自体のふりかえりはしなかったけれど、ロスタイムにその日は選ばれなかった絵本『ともだちや』を希望者に読み聞かせして解散。

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その日全体の流れはこちらからどうぞ。

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「あなたの不満はなんですか?」から哲学は始まるのか

以前、子どもたちの学校や親への「不満」を挙げてもらうところから始めて子ども哲学をすることについて、「不満」と「問い」は全く違うものだ!という意見を聞いたことがある。

もっともな意見であるように思う。

 

確かに、「なぜ?」「どうして?」という問いの形は同じでも、怒りや不満からくるルサンチマンと、知的な好奇心からくる探究心は違う。*2

でも、とも思う。

 

すぐに答えは出ないけど、でも切実に答えを求めてしまうようなそんな問いの求心力は、不満や怒りから出てくるなぜ?どうして?にもあるはずだ。そこに人が本気で考え始める種はやっぱりあるのではないか。*3

 

そんな意味では、今回この本で子ども哲学をしたことは、僕にとってはちょっとしたリベンジマッチとしての意味合いを持つことにもなった。勝ち負けは知らない。 

  

子どもたちに親や学校への不満を言わせてケラケラしている僕は「てつがくする」ことをゆがめたり、「てつがくする」ことから少しずつ離れていってしまっているんだろうか。 

そんな不安もあるけれど、でも自分や自分の周りの人たちと「考えるって楽しい!」と思える方向に進んでいこう。

 

個人的に嬉しかったこと、とか

・前回も参加してくれた小学一年生の男の子が、ルール説明用にホワイトボードに書いていた「ボールを持っている人が話す」という文字の「ボール」のところに線を引いて「コミュニティボール」と書き足してくれたこと。彼は使う絵本の名前もホワイトボードに書いてくれた。

 

・さらにその彼は周りでゴロゴロしていた4歳の妹に、「〇〇も考えてる!?ちゃんと考えるんだよ!」って言ってお兄ちゃんしていた。

 

・アイスブレイクとしてやってみた「私の年齢はなんでしょうゲーム」が楽しかったこと。*4

 

・別のところで知り合いになった某先生と地域でお子さん連れで再会できた。

 

***** 

最後に宣伝。

 

講座情報 | 古石場文化センター | 公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団

 

関わらせていただくようになって、三期目になりますが、江東区の文化センターで半期全6回の子ども哲学やります。地域を問わず参加できますが、事前の申し込みが必須で、基本的に6回続けての申し込みです。

特徴は最後の2回は親子参加の回があることです。親子会でまた『ふまんがあります』使ってみたいな。自分の子どもが講座でちゃんと話せてるかな?って様子を見にきた親たちに向かって、子どもたちにガンガン不満を言ってもらって泡吹かせたいよね。

*1:他に『うそ』『ともだちや』『くいしんぼうのあおむしくん』

*2:これは前回のブログで書いた「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」の区別に少し似ているかもしれない。

*3:もちろんそれが不満暴露合戦になったり、理由のない現状批判になったらだめだけど、そこは僕たちファシリテーターの出番だろう。

*4:やり方1) まずは私の年齢の予想を子どもたちに言ってもらう。「33!」「42!」「78!」2) 1人一回、「はい」か「いいえ」で答えられる質問をしてもいい。「35歳より上ですか?」「30歳ぐらいですか?」3) 大人があと1,2回質問をして、なるべく確定させるよう頑張る。「29歳ですか?」「これまでに答えは出てきましたか?」4)みんなで一斉に答えを言う。 この2)を数字を使っちゃだめとかにすればルールの難易度は上げられそう。「働いてますか?」「結婚してますか?」など

人は死んだらどこへ行くのか

子どもの哲学についての論文をあと数日で仕上げたいのだけれど、書けていない。

ピンチだ。物を書くリハビリも兼ねてブログを書いてみる。

 

***

「人は死んだらどこへ行くのか」
 

一瞬ドキッとなるこの問いは、小学生や中学生と哲学をするときにとてもよく彼らが出してくれる問いの代表例のようなものだ。今年も何度かこの問いが選ばれて対話をしてきた。

 

対話としては、人は死んだら終わり派と終わりじゃない派に大きく別れて、さらに終わりじゃない派のなかにも魂がある派、天国や地獄がある派、生まれ変わる派などがいる展開が多い。

 

子どもたちは死を扱うと言ってもしんみりしたり、「死ぬのが怖い!」という感じでもなく、むしろサバサバととても楽しそうに話している印象を受けるのだけど、もちろんそこで発言しない子もいるわけでその子たちの心情まで十分に汲めているわけではない。もしかしたら、この問いをクラスメイトが飄々と話している子たちを見て、

 

「いやいや、死なんてデリケートで恐ろしいテーマをこいつらなんでそんな楽しそうに議論してるんだよ!」

とか

「最近、おじいちゃんが死んじゃったばっかでこんな話したくもないし、聞きたくもないの!」

 

って思っている子がサークルの中にもいるかもしれないのだ。*1

 

死という極めて個人的な感覚や体験に基づいたテーマを扱うこと自体は十分に可能だと思うし、その場がその問いを選ぼうとするならまあどんどんやればいいと思うのだけれど、「死んだらどこへ行くの?」って問いの(哲学的な?)ポイントって、対話の中で積極的に発言している子よりも、実はその場では発言せずじっとしている子のほうにより(無意識のうちに)理解されている気もする。

 

僕自身も最近似たようなことを思った。

 

***

「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」
 

2月 16日に「てつがく」をカリキュラムに取り入れて2年目になるお茶の水女子大学附属小学校の教育実際指導研究会に行ってきた。そこで見てきたものもとても印象的で色々と書き留めておきたいこともあるのだけれど、今はそこでいただいた雑誌『児童教育』に森田伸子さんが書かれている論考から少しだけ上の話につながる話題があったので紹介したい。

 

森田さんはその中で犬養美智子*2さんという方が書かれたエッセイを出発点にして、哲学を二種類に分けようとしている。

犬養さんはこう仰ったそうだ。

 

昨今、教室で子どもが大勢で賑やかにおしゃべりをしている、子どもの哲学という授業があるが、ああいうものは哲学と言えるだろうか。*3

 

そして森田さんはこれを受けて「1人でする哲学」と「大勢でする哲学」という区別を導入している。もちろんここでは後者が子どもの哲学の活動のことを指すことになる。森田さんとしては「1人でする哲学」をそれぞれがぶつかる人生の問題に立ち向かっていくような実存的なことと考えて、学校での「大勢でする哲学」は、そのような実存的な問題に対して1人で哲学することを「深いところから支えてくれる」ような「哲学する基礎体力」をつけるようなものだと考えている。

 

そしてそこから言われるのは、次のようなことだ。

 

みんなでする哲学では、あまり個人的なことに関わる問題はふさわしくないとリップマン*4は言っています。それは私も同感です。もちろん1人の問題をみんなの問題として考える場合もありますが、一人一人に固有の問題を、深く考えずに公共の場に引っ張り出して話し合うのは、デリケートな物を見過ごし、個人的な物をローラーで踏みならしてしまう危険性があります。対話が自由で楽しいものであるためには、テーマの選択は自由であり、かつより普遍的で一般的なものが望ましいように思います。*5

 

こういう言い方からすると、子どもの哲学で「死」がテーマに選ばれたとしても、それが個人的な話題に踏み込むことなく、比較的楽しい感じで対話が進んでいくというのは、むしろ望ましいことなのかもしれない。

 

でも、そんな簡単に割り切れないし、教室でみんなでする哲学がなんか本気で哲学することの練習っぽく捉えられちゃうのはなんか違う気がする。

でもでも、確かに教室での哲学は、死についての個人的な本気の問いを話す場にはそうそうはなり得ないだろう。

でもでもでも、教室で誰かの個人的な問題に思えることが開示されて、それをみんなで本気で哲学することができたらいいなあともやっぱり思ってしまうのだ。

 

サイゼで死を語る人たちもいるしね。

nagairei.hateblo.jp

 

*1:実際、ここらへんのことを気にして、死がテーマになりそうなときに「このテーマでやりたくない人いるかな?全員目をつぶって、やりたくない人は手をあげてください」などとやることがある。対話の場の安全性に関わる配慮として、だ。

*2:文面では美智子さんになっているけれど、多分、道子さんの間違い。

*3:『児童教育』(27), 2017, p. 21.

*4:「子どもの(ための)哲学」を1970年代にアメリカで始めた人。どの著作のどこで言っているのか、典拠が気になるところ

*5:『児童教育』(27), 2017, p. 22.

いかにして【小さな声】がかき消されずに合意が成立するのか?

はじめにの前に

2012年から2015年(だったはず)まで、都内の小石川中等教育学校の先生に実践の場を提供していただき、高校生と哲学対話をするという機会を継続していました。

 その一実践に、お越しいただいた方に、当時エッセイを寄稿していただいたのですが、私の全くの不手際でこれまでずうっと世に出せずにいました。この度大森さんにご連絡をし、掲載の許可をいただきましたので、こちらのブログで公開します。

 一回の実践しか見ていただいていないのに本当に目の付け所が面白くて、すごくて、ワクワクします。なんというか、最近別のところでも思うのですが、P4Cの実践や研究はしばしばアカデミズムの哲学研究と対置されますが、でもしっかり日々アカデミックな研究機関で哲学をされている方にも、このようなかたちでP4Cを見ていただけるんだとしたら、P4Cとアカデミズムの対置なんて阿呆らしいよなと、そう思ったりもします。

 後日僕も考えたことを別のエントリで書こうと思っています。

 

 大森さん、本当にごめんなさい。その上快く掲載許可をいただきありがとうございました!

 この論考がたくさんの方の目に触れて、みなさんの考えが刺激されますように!

 (以下本文にいくつか私の判断で注釈を入れさせていただいております。)

 

 

 

いかにして【小さな声】がかき消されずに合意が成立するのか?

—P4Cの実践現場からの考察—

                               大森 一三

 

1. はじめに  

 

 現在、子どもの哲学(Philosophy of Children. 以下P4Cと略記)は、哲学、倫理学、教育学をはじめとする学問研究としてだけではなく、さまざまな教育現場でも高い関心を持たれており、関連する論考や実践の報告も年々増えてきている。

 この度、都立小石川中等教育学校で行われた「小石川フィロソフィーⅡ現代社会in action」に参加し、P4Cの対話実践を行う際に生じる課題に対する解決の示唆を得ることができた。この短い稿では、P4Cの対話実践に伴う課題と、小石川での実践を通して得られた発見を簡潔に記してゆきたい。

 

 

2. P4Cの到達目標と課題  

 

 さて、P4Cを紹介している書籍や関連する諸論文では、一般的に、対話による子どもの哲学授業は1969年にM・リップマンが始めたとされている。だが、子どもに対して哲学的な問答を用いた教授法の実践は(もちろんなにをもって「哲学的な問答」とするかには議論の余地があるが)、少なくともリップマン以前、「教育の世紀」と呼ばれた18世紀の欧州においても、キリスト教のカテキズム(教理問答)を応用した仕方で試みられていたし、理念的にはソクラテスとその弟子たちとの対話に遡ることができる。だが、ここではそういった細かい歴史を掘り返すことは止めておこう。

 まずはP4Cの対話実践に伴う疑問ないし困難を提示してゆきたい。ハワイでのP4C実践の第一人者であるトーマス・E・ジャクソンの”Gentry Socratic Inquiry”(中川雅道訳, 2013. )*1ではP4C の目標を「自分自身で考える能力を育み、責任をもってその能力を使えるようにすること」と示した上で、対話実践を実際に行う際の「教師の位置づけ」や「スキル」が述べられ、P4Cの目標、特徴、課題とその解決が簡潔に提示されている。

 この論稿の結論を一言でまとめるならば、P4Cの目標成就は、P4Cを行うグループが対話実践を通して「探求共同体(Community of Inquiry)」となることにかかっているという点にある。

 「探究共同体」とはP4Cを行う教師と生徒が「教え:学ぶ」という関係から脱却し、一人ひとりの参加者が相互に相手を尊重し、信頼しながら問題を探究してゆく集団関係を意味する。

 したがって、ジャクソンの論稿で示されるP4Cの課題とは「探究共同体」を阻害する要因を取り除くことである。ジャクソンは、この課題を、「知的安全が確保されている場所(intellectually safe place)をどのように獲得するか」という課題と言い換えてもいる。

 「知的安全の確保」とはP4Cが行われるコミュニティ内で、 誰のどのような発言であっても受け止められ、多様な発言が意見として受け止められ、議論される環境を築くことを意味する。P4Cを実践しようとするならば、これらの課題が解決されるべきであり、ジャクソンの論稿では、その解決のための丁寧な仕組みや「スキル」が示されている。

 

 

3. テーマ設定に伴う危険:【小さな声】はかき消される?

 

 だが、多様な意見が相互に受け入れられ、尊重される場の成立など本当に可能なのだろうか。どれほど(「コミュニティボール」や「マジックワード」やその他諸々のルールなどの)「スキル」を用いても、参加する子どもの性格やこれまでの関係性、言語能力の差の方が強く影響し、結局は「声の大きな者」の意見のみが対話の場を支配するのではないだろうか。一見、「知的安全の確保」が成功 し、対話が進んでいるように見えたとしても、実際は、哲学対話の場の実施者(それは多くの場合、教師や大人である)の仮説の成功を表面的に見ているだけではないか。

 こうした懸念はP4Cの実践の過程ではとりわけ「テーマの設定」の際に表面化するだろう。ジャクソンの先の論文では「テーマの設定」は子供の関心に従って自由に選択することが強調されている。

 だが、自分の「関心」を明瞭かつ説得的に述べることをできる【大きな声の子供】もいれば、消極的で全体の調和を慮って、自分の「関心」を引っ込めてしまう子供や、自分の「関心」をはっきりと述べることが苦手、あるいは自分の「関心」を掴むことが十分にできず、まったく主張をしない【小さな声の子供】もいるだろう。

 そうした中では、最初のテーマ設定の段階で、いかに「スキル」を活用しようとも、結局は【大きな声の子供】の声のみが反映されてしまい、本当の意味で多様な意見が相互に受け入れられ、尊重される場など成立しないのではないだろうか。

 

4. 「意見の一致による合意」ではなく「テーマの変質による合意」
  —フィロソフィア小石川での考察より

 

 主観的な体験に基づいた意見ではあるが、フィロソフィア小石川*2でのP4Cの実践に関していうならば、最終的には多数決を持ってテーマの設定を行ったが、それでも【小さな声の子供】の声はかきけされず、十分に汲み取られた上でテーマ設定が行われたのではないかと思われる。ではそれを可能にした要因は何だったのか。

 フィロソフィア小石川での第四回の対話*3では、テーマの設定に際して、最初は7つのテーマが提案され、どのテーマに対しても「そのテーマにしたい」という希望者が複数名いた。

 参加者は、 テーマ設定に際して、それぞれにそのテーマを希望する理由や背景を互いに質問し、意見を交換してゆく時間を十分に取り、最終的には、多数決で「個性は大切か」というテーマが決定されることになった。

 では、参加者たちは、各テーマに対しての質問や意見を交換する中で「個性は大切か」を主張する【大きな声】に説得され、あるいはその説得の勢いに負けて最終的にこのテーマへと合意したのかといえば、おそらくそうではない。

 というのも、 「個性は大切か」というテーマに決定した後に、このテーマに関する対話を積極的に進め、様々な意見を出した参加者の多くは、当初は「個性は大切か」以外のテーマを希望していたからだ。

 では、「フィロソフィア小石川」では、どのようなことが起きて、テーマの合意が成立したのか?ここで、その場を観察しての仮説を述べたい。

 参加者たちは、テーマに対する質問と意見を繰り返す中で、そのテーマが、実は別のテーマや、あるいは声には出されなかった自分の別の関心と結びついていることを発見していったのではないだろうか。実際、「記録」にある生徒②の発言*4は、「当初、自分が希望していたテーマとは異なるテーマが、実は自分の関心と結びついていた」という発見を述べている。 テーマについての質問と意見の際に、参加者の側で起きていたことは、こうしたテーマと自分の関心の結びつきの発見なのではないだろうか。

 つまり、それぞれがある質問を吟味する中で、それぞれの中で「そのテーマ」に対する見方が変わり、自分の関心と結びついたものとして現れてくる。あるいは、自分の中で気づかなかったら新たな関心が喚起される。あるいは、当初抱いていた自身の関心自体が変容してゆく…。そのようにして、テーマ設定に対する質問と意見交換が一巡する頃には、当該のテーマ自体が、最初に提案されたころのものとは質的に変化している。

 この観察を通じて示されているのは「【小さな声】も汲み取って合意する」ということの可能性についての仮説である。

 その仮説とは、「【小さな声】を汲み取っての合意」とは、「各人の意見の交換のなかで、説得が行われ、多数決によって一つのテーマへと収斂する」というあり方ではなく、「それぞれの意見を聞く中で、それぞれの関心と、テーマそのものが変質する」というあり方で行われる「合意」である。

 もちろん、全員のなかでこうした事態が発生し、すべての【小さな声】が斟酌されたと断言することはできない。だが、小石川フィロソフィアの実践に対する考察には、たんなる「意見の一致としての合意」というあり方以外の「合意」の可能性を示していると言える。

 

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*1:http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/24717/1/clph_14_2_056.pdf

*2:私たちは小石川での哲学対話の活動をこう呼んでいた

*3:この日の参加者は中等4年生(高校一年生)14名、高校大学教員1名、大学生・大学院生などが7名であった。時間は休み時間を含めて100分間。

*4:「私は最初「なぜ勉強しなければならないのか」が気になってて、でもその〇〇さんとか××君の意見を聞いて、自分を表現するとかその行動についての個性まで話が拡げられるのに気づき、さらに自分で考えたのは、よく評論とかで近代的個性とか個人主義とかもあるので、そういうのも、そのもしかしたら個性による弊害も、現代社会であるのではないかっていう点についても触れられるので、「個性は大切か」っていう問いを推します。」