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わたしのこどもてつがく(仮)

「こどもの哲学」(P4C)とそれにまつわるものたちでテキストを書こう。みんなで書こう。

授業中にみんなで食べるお菓子は格別か

先日のとあるクラスでのP4Cは、事前にグループで話し合いたいテーマややり方を決めてもらってのものだったのだけど、一つのグループはクラス全体で「授業中にみんなで食べるお菓子は格別か」という問いをやることになっていた。

 

この問いが決まった経緯はこんな感じ。

いろいろ話し合っている生徒たちに向けて僕が「他のクラスではお菓子を食べながら話し合いたいって案も出てるよ、」って言ってみる。

それに食いついた一部の生徒が盛り上がる。

僕が「でも、哲学対話の授業でお菓子を食べる理由はちゃんと言えるようにして、担任の先生の許可も自分たちでとってね」と伝える。

お菓子を食べる理由になりそうな問いを考え出して、先生に相談。OKをもらう。

やったぜ。

 

.....

で当日、進行役は生徒の一人がやってくれることになっていて、大人は対話に入らないでやるとのことだったので、僕は基本的にずっと円の外からみんなのことを見ているだけ。

 

クラスのほとんどの子が何かしらお菓子を持ってきていて、みんなで円になってガヤガヤお菓子を食べるところからスタートして、本当に15分くらいただお菓子食べるタイムである。

 

なんだかなあとも思うけど、少なくとも普段の哲学対話の授業とは違う雰囲気をみんなも楽しんでいたみたい。

多分普段の仲の良いグループで話しながら食べてるだけで、クラス全体でまとまってるわけではないのに、サークルのなかに漂う緩やかな一体感。

お菓子すごい。

 

 

お菓子を十分楽しんだ後に、哲学対話が始まって司会の子が、食べてみての感想を聞くところから始めてくれたんだけど、みんな、味は「普通」とか、「辛(から)かった」とか、そんな感じの反応で、あまり話は広がらず。

 

でも外から見てたらやっぱ授業中のお菓子って何かしら「格別」っぽい感じはあった。なんかみんなすごい表情が緩んでたよね。うん。

 

結局対話自体は停滞してしまって、司会の子や何人かの子がなんとか対話しようと奮闘しているのを時々こそっと応援をしつつ、円の外から見ていたのでした。

 

.....

今回の哲学対話は失敗だったのかしらと思うと、いやいやそうじゃないと言いたいし、こういう授業を生徒たちに任せた自分が失敗じゃないと強く言えないとやらせちゃいけない授業だったとも思う。

 

僕の授業はこういう失敗っぽい哲学対話をやりっぱなしにしておくことが少なくなくて、そこはもう少しなんとかして打率をあげていかなきゃいけないんだろうと思う。

今日は超哲学したぜ!って対話はそんなに多くなくて9番ピッチャーの打率くらいのものかもしれない。

 

でもそもそも学校の授業でやる哲学対話の打率が四月の開幕仕立てのころのリーグの首位打者のそれくらいだったらそれはそれで気持ち悪い感じもする。

 

だから少なくとも今回の授業がこの打率を挙げるためのなにがしかになってればそれで成功だ、って言いたいし、

あるいは打席に入ってりゃいつかはヒットを打ったり、時々はホームランが出るのだから、生徒と一緒に打席に入れたと思えればそれはそれでもう成功なのだ。

 

などと言ってみる。

 

...

ある先生にその日の対話のことを話したら、「全然いいじゃん。授業中にみんなでお菓子食べて対話するなんてやられたことないことやってみて、グダグダになるってわかっただけで、超面白いじゃないですか」(意訳)と言ってくださった。

 

ああ、もうそんな感想を聞いたら、励まされちゃいます。

 

 

 

Thinking is fun!問題。

今年最初の中学校の哲学対話の授業だった。

 

とはいっても、今日もほとんど何もしていないし、そもそも来週以降の準備会だったので、対話はしていない。

 

「オーダーメイド哲学対話」と名付けた企画で、生徒たちに、どんなテーマや問いで、誰(生徒/先生)が司会(ファシリテーター)をして、どんな風に(素材を使うか、グループに分かれるかなど)を、グループで話し合って決めてもらって、できることなら授業全体をまかせちゃおうというもの。

 

こっちは今日も各クラス二つのグループが、ふざけあいつつも、少しずつテーマを決めて話し合っていくのを、時々茶々を入れつつ見ているだけだったのだけど、結構待つのももどかしくて疲れた。

 

でも結果的には、面白そうな問いややり方の案も出てきていて来週と再来週が楽しみである。

 

.....

さて、Thinking is fun!問題である。

 

考えるって楽しいことなのでしょうか。

 

僕にとっては、割とそういう感じはあって、やっぱり考えることって結構楽しいと思ったりする。

 

もちろん、切羽詰まっていてあれもしないとこれもしないと、アアァァァー、みたいなときに考えてるソレは別に楽しくもなんともないし、今にも泣き出しそうで叫び出しそうではある。

 

ここで言いたいのはそういうことではなくて、そういう切羽詰まった感からは少し離れていて、でもやっぱり自分が生きることにって大事な問題だなあと思われるものについて、自分の話をちゃんと受け止めてくれる人と一緒に考えること。そういうことはきっと楽しい。いや、うーん、でもだからと言って楽しいことをしたいからやる!わけではなくて、考えたいなと思うから考えて、で結果的に楽しい、って感じなんだけど、それは今回の本題ではない。

 

今日の授業では、どういう哲学対話をしたいか、という話し合いだったので、哲学対話をしていたわけではないのかもしれないけど、それでもワイワイとそれなりに楽しそうにやっているグループと、お通夜状態のグループがあった。

 

お通夜状態のグループは、男女が分裂しちゃって全然話ができないし、担任の先生もなんとかしようとしてくれるけど、それもそう簡単にはいかず、あの30分は、自分の学生時代の記憶にもあるけれど、いわゆる「アア、ダルイ、モウハヤクコノジカンガスギレバイイノニ、ナンデワタシガコンナメニ状態」だった。

 

僕はそんな様子を見つつ、ほとんど手伝わず、めんどくさそうに、でも責任感のある生徒がなんとか無理やり話を進めていって、決めてくれるのを頼りにしていただけだった。きっとあのグループの人たちは誰一人としてThinking is fun!ではなかったでしょう。

 

ため息ばっかり!

 

 

学校の教室のグループ分けとかってどうしたって、その日の一人一人の気分や関係にも左右されて、グループワークが全然うまくいかないことってある。だから哲学対話の授業のそれだけがダメなわけじゃないけど、哲学対話の先生として教室に行ってなお、同じことを再生産してしまうのは大変心苦しくもある。

 

そもそも毎週決まった時間に、授業として教室に行って、さあ考えましょう、何考えたい?自分たちで話し合って決めて!ってガンガン来られても、ワクワクしないよね。

 

なんで授業ってワクワクしないんだろう。

 

それでも、他の授業よりははるかに自由度が高いと思うし、そこで騙されたと思って、考えてみたら結構楽しいよね、ってのを期待していて、実際にそういう感じはそこそこの数の人たちに持ってもらえているという感覚もあるのだけど、それでもやっぱり教室で決まった時間にやる哲学対話を楽しいものにするのって大変。考えるのって、自分で気持ちの乗ったときに好きな環境でやるから楽しいのであって、さあどうぞと言われてもそんなに楽しくないでしょう。

 

 

それでも、それでも、他の授業と比べたらはるかに授業っぽくないでしょう、楽しそうでしょう、リラックスできそうでしょう、考えるのって本来こういう自由なことなんだよ、楽しんだよ、って言いたい。でも、そういう体裁をとりつつ、やっぱりこれはあくまでどこまでも哲学対話の授業なのでした。

 

 

 

ほらほら、ごらん!これが哲学です!

哲学的創造に自主的にかかわろうとする人による秘密の集まりに行って、その会の名前を決めてきた。

 

専門の東西・時代を問わず、広く哲学を「「哲学とは何か」の再定義の営みを必然的に内包する」ようなものとして捉え、集まった人たちで細々とやっていくよう。

 

どんな会になるのだろう。本当は色々その集まりに参加して思ったことがあるのだけど、うまく書けないのでそれはまた会ったときによければ聞いてください。

 

... 

さて、

 

来年から自分がどうなっていくのかわからないのだけど、所属する大学も無く、後ろ盾にする立派な哲学者もなく、博士学位もなく、無防備に「哲学しようぜ!」とか言ってお金をもらう人になりそうではある。

 

 

ゼミの先生に常々言われていた。

 

私たちは東大や京大じゃなくて一私立大学なのであって後ろ支えになるものはないのだから、学会に出かけて行っても、もうとにかく自分はそのテキストを誰よりも深く時間をかけて読んだんだってことだけを頼りにやってくしかないんだ。だれかにそこの解釈はちがうって言われてもちゃんと自分が時間かけてやってきたことをもとに胸を張って答えられるくらい、それくらい勉強するしかないんだよ。

 

って。

 

 

 今や、頼りにするテキストもない。それでも大人にも子どもにも「哲学しましょう!」って胸を張って言っていくためにはどうしたらいいだろう。

 

周りから「テキストも読まずに、ただただ子どもや大人と対話をするだけ、なんてそんなの哲学じゃないよ!」って言われても、「いやいやこれが哲学です」って胸を張って言えるだろうか。

 

 

いや、でもでも、「これが哲学です!」って胸を張って言い出した途端に、それはもう哲学とは別の何かに向けてずれ始めている気もする。

 

むしろ「はいはい、そうなんですよ、こんなの哲学じゃないかもしれないのですよ、僕もよくわかんない、いつも考えてるけど、わかんない。一緒にそれも含めて考えましょうよ。はい、でお金ください。」のほうが正直ではあるが、なぜお金をもらえるのかはなぞである。

 

でもとにかく、固くなりすぎず、しなやかに、ゆるやかに、哲学する人でいたい。

...

 

行き着く先はきっと、「哲学の専門性とはなにか」、といういつもの問題だ。

 

少なくとも現時点で自分の考えとして言えるのは、それはたくさん物事を知っているという知識によるのではないということ。哲学の専門性は、考えるということの形式のうちにある。批判的思考。問題っぽくないところに問いを見つけ、それを整理して提示し、粘り強くあきらめず考えるような態度というか、姿勢というか、そういうところに現れてくるもの。だから目に見えないし、測れないし、めんどくさい。

 

...

 

このエッセイを書くのは、自分自身の活動の整理のためでもあるけど、哲学の専門性とは何かを考えるためでもあるだろう。あんまり大きな話はせず、むしろ自分の身の回りに起きたことについて書くのが大事だと思っているので、今日みたいなよくわからない話はあまりしないようにします。

 

今年もお世話になりました。楽しい一年でした。

 

来年は楽しみなこともたくさんあるけど、不安もいっぱいです。

来年もどうぞよろしくお願いします。