窓をあけておく

窓を開けておくと妻にすぐ閉められます。

サンタクロースをだれも信じなくなること

クリスマス。教会に行って賛美歌を歌ってきた。

 

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10月に親子参加の子どもの哲学があった。

 

問いは子どもたち(小学生)が出した、

・サンタクロースっているの?

・なぜ大人になると働いてお金を稼がないといけないの?

・子どもの名前を大人はどうやって考えているのか?

・大人のいうことを子どもは何でも聞かなきゃいけないのか?

から「サンタクロースっているの?」が選ばれた。

 

親子で話すには大変ふさわしい話題かなと思ったけれど、最初に全体で特に子どもたちに、サンタクロースはいると思う?と聞いたところほとんどの子がいない、ないしわからないと答えて、そこからはその理由として、「だってサンタは煙突から入ってくるけどうちには煙突がないもん」とか「サンタからの手紙は日本語だったもん」とか「1日で全部の家を回れるわけがないもん」とか、冷静な意見がたくさん出た。親はそれに反論するというより、苦笑いしたり、親の側の想いをうっすら話したりするような展開で、親と子に分かれて対話をする時間、最後にもう一度全体で輪になる時間を設けたけど、議論が噛み合うって感じではなかったと思う。でも、実はお互い本音を話しているようで、家に帰ったあと本当に気まずくなるようなところまでは子どもも踏み込まないし、親もそれは同じ。

 

親も子も色々なことに気を使いながら対話をしていた。

きっと子どもはサンタがいるなんて確信していないけど、まあいるということにしてクリスマスプレゼントはもらっているし、親も子どもが信じきっているわけじゃないことをわかっているのにサンタに頼んでプレゼントを渡してもらってる。そんな感じで、お互いにだましだまし生活していることが、対話の場で露わになりつつある感じはとても緊張感があった。

 

周りの人たちもよく指摘しているけれど、子どもの哲学にはそういう「わざわざ今ここで問い直さなくても...」と言いたくなるような問題を私たちの前に引きずり出してきて、めんどくさいことにする、ような可能性がある。もちろんそういう既存の関係性の変容が対話の場で起きることに意味があるとも思いたいのだけど、どこでも誰にでも哲学しようぜっていうのは、やっぱり暴力的でもある。

 

 

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あの対話を経験した家庭は、今年のクリスマスをどういう風に過ごしたかな。対話をしたことで何か変わったかなと思うこともあるけど、きっと考えすぎで、おそらく淡々とサンタクロースは枕元にやってくるのでしょう。

 

 

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子どもに哲学をできるようになってもらうことを目指すことって、たくさんの小学生が「サンタはいるのか」について疑い、それには証拠があまりないから信じないぞ、騙されないぞ、って感じになっていくことなのだろうか。

 

もし子どもの哲学を突き詰めてやっていくことが「信じる」ことの価値を下げることだとしたらそれはイヤだな。きっとそうならない方法があるはずだけど、というか一生懸命哲学してたら、信じることの領域がしっかりわかるはずだから、大丈夫なはず、と信じてみよう。

 

こいつなら俺の言いたいことをちゃんとわかってくれるんだ

もともと少し前にこういうエッセイをやりたいと思ったきっかけは、人と話していて、子どもの哲学について人が公に語ったり、論文書いたりするときは、それがいかに素晴らしいかってことばっかりでいけないって言われたことだった。

 

もっとうまくいかないとことか、ダメなとこととか、学校でやろうとする以上どうしても出てきちゃうし、そんなにいつでも全ての生徒が深く考えてる、なんてそんなわけないんだから。

 

その通りです、P4Cを清く、美しいものとして語りすぎてきたかもしれない自分を反省しつつ、とりあえず良い悪いはあまり意識せず、印象的だったシーンや出来事を記述していくのがエッセイっぽいんじゃないかと思う。だから議論はあまりしない。

 

 

 

さて、表題のようなことを、中学校での授業のときにある生徒が発言したことがあった。そこではクラスの生徒26名くらいで全体で輪になって話をしていて、確か問いは「理性的であるとはどういうことか」の回だったと思う。

 

この問いが選ばれた経緯について簡単に説明しておくと、担任の先生が出した問いだったのだけれど、この学年自体が今は理性的で行こうぜ!って感じの目標でやっている時期で、でもそれって先生から色々言ってみても、みんなはそのことどう思ってる?理性的になれ!って言って「ハイハイ、ワカリマシタ」ってなったら、むしろそれって理性的じゃなくない?といった問題提起だったと思う。

 

全体の対話も、担任の先生を含めて、学校自体が生徒に求めるものに対して生徒たち自身がチャレンジしようとしたり、問い直そうとしたりする場面もあって、面白かったと記憶しているけど、今日書きたいのはそのことじゃなくて、表題の1シーンなのだ。

 

そのクラスではもう10回くらい僕も対話に入っているけれど、とてもよく話す生徒が2人いる。(むしろ、この2人プラスあと2、3名しか自分からは発言しない。)ほかに、先生曰く他の授業ではほとんどやる気がみられず睡眠学習にふけっている生徒で、哲学対話の授業のときには、対話の途中でハッと、手を上げて発言をしてくれる生徒がいる。表題はその人についてのものだ。

 

少し議論が複雑になってきたところで、その生徒が何かを言おうとしたのだけれど、うまくまとまらないらしくて苦しんでいる。うー、とかあー、とかわかんないとか、そんな感じ。考えている。で、その生徒は近くに座っていた、対話でいつもよく話す生徒の一人に向かって、「ちょっと俺の言いたいこと聞いて、お前がわかりやすく伝えてくれ」まず自分の言いたいことを話して、それをよく話す生徒のほうが聞いて噛み砕いてみんなに向けて「○○の言いたいことってのは〜」と説明してくれた。

 

多分僕の記憶が間違っていなければ、僕は「今の説明で言いたかったことは伝わってる?」と聞いたら彼は満足げに頷いていて、ほとんど何も補足をしなかったと思う。

 

なんで僕はその日の対話自体を覚えていないのに、このシーンだけは非常に印象深く覚えているんだろう。友達の混乱した言いたいことをしっかり聞いてあげて、それをクラス全体に伝えてくれた生徒の優しさや能力ももちろんすごかったけど、多分もっと自分の心に残っているのは、うまく自分の言いたいことが言えなくて、それでもう諦めちゃいそうなシーンで、そこで発言するのをやめても誰も文句を言わないそのシーンで(だって、その授業ではほとんどの生徒がそもそも発言しないんだ)、すぐそばにいる同級生を信頼して、自分の考えを託したということのほうだった。うまく言えないけど、それはなんというか私の目にはとてもほっこりするシーンだったのだ。

 

授業のあと、自分の発言を要約してもらった生徒に、「彼なら自分の言いたいことわかってくれるって思ったの?」と今思えば大変自明な質問をしたら、特に何も言葉にはしなかったけど、彼はちゃんとこっちの目をみて頷くことで返事をしてくれた。

P4Cでエッセイを書こう

対話をメタ的にふりかえることも大事。

 

理論研究も大事。

 

文字起こししてみて対話を分析するのも面白いかもしれない。

 

でも、その場で起こったことを主観が入り混じったかたちでいいから書き留めて、蓄積していくことも、きっと楽しいし、それを読み合うことで見えてくるものもあるよね。